豊太郎の焦燥
豊太郎はアカデミックな法律学の勉強からは遠ざかってしまいましたが、この仕事に新しい魅力を感じていたのです。今から考えて見れば、法律学の勉強は無味乾燥なものであり、官僚として出世するために自らに強制していたに過ぎなかったことに気づいたのです。ところが現在は、ダイナミックな政界の動き、文学・美術の新しい展開に触れ、それらを様々に関連づけて記事を書き、日本に送っていました。また思想的にはハイネから大きな影響を受けました。
先にも述べましたが、ハイネはマルクスとも親密な交際のあった思想的にはラディカルな人物であることに注意すべきです。鴎外は社会主義についてかなりの知識を持っていました。鴎外は単なる保守派ではないのです。豊太郎は、政治的な面では、ドイツ皇帝の相次ぐ逝去と新皇帝の即位、それに関連した鉄血宰相ビスマルクの進退について興味を持ち詳細な報告をしたと書いてありますが、これは鴎外がジャーナリストとしても優れた眼を持っていることを示しています。
「我が学問は荒みぬ。」という言葉は二度繰り返されます。「我が学問」とは、大学における体系的学問を指しますが、今は生活のためにすっかり遠ざかってしまったことを示しています。エリートコースから脱落してしまったことへの悔恨が読み取れますが、それ以上のものを手に入れたという自負心も披瀝しているのです。
豊太郎が出世コースの階段を踏み外す事なく順調に昇っていったとしたなら、単なる優秀な一官僚としてその生を終えたでしょう。しかし彼は、大学で学んだ理論を武器に、民間学(ジャーナリズム等による批評研究)の分野に参入し、それらを消化し、ついに「一種の見識」を持つまでに成長したのです。断片的な知識をいくら沢山集めても、それは所詮物知りの枠に止まります。その知識が何らかの痛切な体験によって一つの線によってつなげられ、体系化される。それがつまり、思想を持つということなのです。豊太郎は、免官、母親の死、生活のために現実社会で働く、という体験によって、ついに彼独自の思想を手に入れたのです。他の留学生が遊びにうつつを抜かし、現地の新聞さえろくに読めないのに対して、豊太郎が優越感を抱いたのも当然でしょう。
では彼がこの現状に満足できたのかと言えば、それが問題なのです。せっかく近代人として自立の契機を与えられたにもかかわらず、自らの中にそれを拒否しようとする要素があったのです。鴎外の小説『妄想』に次のような一節があります。
少壮時代に心の田地に卸された種子は、容易に根を断つことの出来ないものである。(「鴎外全集」第八巻 岩波書店)
幼い頃から出世を義務づけられ、そのための教育を受け、自らの生き方に疑問を抱きながらも競馬馬のように疾走して来た人生。豊太郎の出世志向は、本能のようなものでした。エリスとの暮らしに充実感を持ちながら、やはり出世コースへの未練を断ち切ることは出来ませんでした。
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