カード会社のホームページにログインしようとした。
前にログインしたのがずいぶん前だったせいか、いつもとはちがう画面が出た。 〈お客さまの身元確認のため、秘密の質問の答えを入力してください。〉という文言があり、 〈子供のころの親友の名前は?(ひらがな四文字以上)〉と質問が出た。
ああはいはい、ユリチンね。懐かしいなあ。 〈ゆりちん〉と入力してエンター。
エラーが出た。
え。軽く動揺した。ユリチン。小学校のころいちばん仲が良かった。六年生のときなんか、ほとんど毎日遊んでいた。いっしょにマンガを描いた。映画館で『小さな恋のメロディ』を観た。電車に向かってラインダンスをした。毎日死ぬほど笑い転げた。たしかに親友だった。他に誰がいるというのだ?
いやいや待て。小六よりもっと前の話かもしれない。そうか。とし子ちゃん。小二のとき隣の社宅に越してきた。同じクラスになって、毎日いっしょに下校した。家に帰ってからは必ずどちらかの家で遊んだ。そうだとし子ちゃんを忘れていた。 〈としこちゃん〉と入力してエンター。
エラーが出た。
額に汗が浮かんだ。とし子ちゃんでもない……?
じゃあもっと前なのか?
そうか子供っていったらやっぱり汚れを知らない幼稚園時代だよね。小学校なんて荒波にもまれて汚れっちまって、もうとても子供とは言えまい。
サキちゃん。サキちゃんを忘れていた。幼稚園の年長のとき同じすみれ組だった。ぐずでいじめられっ子だった私に、サキちゃんだけは優しくしてくれた。具体的にどう優しかったのか、もうあんまり覚えていないけれど、でもここまで来たら他には考えられない。サキちゃんでお願いします。
エラーが出た。
動悸が激しくなってきた。
いったい誰だったのか私の親友は。
だがたしかこの質問は、〈母親の旧姓は?〉とか〈ペットの名前は?〉等々の候補の中から自分で質問を選んで答えを設定したのだ。つまりそれくらい自分にとっては自明の答えだったはずなのだ。
私はげんこつで頭をぐりぐり締めつけた。頰を平手で叩いた。心頭滅却して般若心経を唱えた。そうするうちに暗闇に光が射すように、かすかな記憶がよみがえった。
そうだ。思い出した。あれは幼稚園よりもっと前なのかそれとも小学校あるいは中学なのかいっそその全部なのか、寄り添うようにつねにいっしょに過ごした親友が、確かに私にはいた。ありとあらゆる遊びをいっしょにした。石蹴り、ゴム跳び、あやとり、サッカー、すごろく、万引き、しりとり。セミをつかまえ、池で泳ぎ、花火を打ち上げ、サツをまき、密航し、スイカ割りをし、雪だるまを作った。手をつないで空を飛んだ。残像を替え玉にした。絵の中に隠れ、時空を旅し、万里の長城を越えた。楽しかった。あんな大切な親友の存在を忘れていたなんて。その子供の名前は。名前は。
かすむ目でモニターを見たら、質問はもう次の 〈好きな食べ物は?〉に変わっていた。
私はそっと画面を閉じた。
とてつもなく大切な何かに永遠にログインしそこねたことだけが、はっきりとわかった。
(本書より)
岸本佐知子
ひみつのしつもん
『ねにもつタイプ』『なんらかの事情』に続く「ちくま」名物連載「ネにもつタイプ」第3弾!
文庫化に際して単行本未収録回を大幅増補‼
刊行日:2023年11月9日 定価:792円(10%税込)
ISBN:9784480439277