どこでやってんのって聞かれて昭和町っていうたら友達にめっちゃ笑われたみたいなんですよ。「難波とか南とか北ちゃうん! どこやねんそれ!」みたいな
たまたま暦を見たんですよ、神宮館とかありますでしょ。そしたら適業が書籍業って書いてあったんです。「あ、これだったらいいんだわ」と
うちのおかんは俺にだけよう言うてたんや、人に間に合う人間になれいうて
今までは必死で何でも自分一人でやってきたけれど、少し甘えられるようになったのが六〇過ぎてからです
こんなん好きやろとか言って、ほんでいきなり山を降りて、踊らされて。それが始まり(笑)
もう正直邪魔くさいわほんま……耳いらんねんやったら残せよって思うもん
チャイムが鳴っているの、聞くのもすごく懐かしいし。で、職員の声とか、放送の声とか、あと、入り口の上に飾ってある絵、私のきょうだいが描いた絵なんです
私は私のお父さんみたいな人と結婚したかったん
全部、噓のかたまりや
「もう聞かへんから、最後に聞かせて。あんたはお父さんか、お母さんか」って。私は「お父さんやで」と。「よし、わかった! ほなお父さんやな」と
お父さん、タオルをすっごい、絞ってくんねん(笑)。あの、カラッカラになってんちゃん!っていうくらい
じゃあ別に、本当に手術します、切ります、になったときに別に捨ててなくてもまあいい。それはそれでね、話のネタとして面白いやん。永遠の童貞ですって
楽しかったーとか言って帰っていく人多いからな。漫談ちゃうねん、言うねんけどな
なんで俺だけ小遣いくれるのかなあって。それが本当の母親やったんやろうけどなあ。産んだ子はどうしても恋しいから見に来るんやろうなあ
お父ちゃんが写真撮ったら、写真にお父ちゃんが写ってない。アルバムにな。お母ちゃんと子どもは写ってるけどもお父ちゃんは写ってない
でも営業許可申請することによって、毎年確定申告せなあかんくなるやんか。どっちや、と
援助交際とかパパ活を通して、一番しんどいのってやっぱりこういう感覚が壊れること。感覚の崩壊って本当に元に戻すのが大変
朝三時に家出るやん、そしたら回す時間もないし、取り込む時間もないから、今のこのちょっと発酵させてる時間に、洗濯物干したいみたいな
もうパチンコでも何でもいいから借金つくったろう思って、わざと
でっかいやつばんばんばんて置いて「今日は白菜描こう」みたいなんで私が描いたら「あんた小さすぎるわ!」
孫になんかクリスマスにおもちゃなんかやったらいいけどな、そんなん一時的なもんやん。本やったらな、またなにや思て
民主主義でいきましょう
ビールもやけどキムチもやけどレコードをかけたりとか、みんなでわーわーわーわー、もうほんまに畳もなんもないとこもあんねんで
報道のヘリコプターがバリバリバリバリって飛んでる。何十機もね。そんときにがれきの下のうめき声って聞こえへんやん、踏まれてても。なんで飛ばすんや
全部日本語やけど、覚えたね。大きい機械、四つぐらいある。全部、僕はボタンで覚えたんや。名前はわからんけど。それでないと班長はできないからな
「よかったらたこ焼きとかできますけど」言うたら「おー。ほんだらあんたら兵庫県人会の県人会代表で、ちょっとそれやってくれや」って言われて
だから大正区もそんなにガラがよくないのに、わからないんだよ、田舎もんだから(笑)。ホントにわからないのが強みよ
「俺の今後の人生でもって、あなたのすべてを肯定します」って書いた気がするわ、たしか。全部、間違いじゃなかったんだよっていう意味で
だから「今里の水先案内人」っていう肩書きを自分につけて
かかり過ぎだよ一一年、初めての三回戦、ようやく去年。まぁほんで祇園花月を選んで、すごいねぇあっこは、めちゃくちゃいい劇場
難儀しながら試行錯誤してた時間、返せよって。徹夜のうどん代も返せよって感じやったわ
悪気もないんやろうけど、私のしゃべり方を、きつくじゃないで。真似たんやんか。「なんとかやしよ!」とか言うて
でね、これもまったくの偶然やけども、今の本屋の場所はもともと、やっぱり本屋さんやってんて
スタイリストになろうと思ったら東京に行かへんかったら仕事がないのよね。雑誌社とかそういうようなところやから。東京まで行く勇気はなかったのよ
わたしも飲み屋さんなんかやったことないし、飲み屋なんかやるつもりも全然なかったんで。で、まあ主人は断ってくれると思ってたんですが、よう断らんかったんよ
僕って結局そういうことしかでけへんからな。要は、それをしないことには自分の武器があんまりないから、い うのがどっかにあると思うわ
日本に来て、お母さんね、大変だろうから、あなたが養ってあげたらって。だからまあ、腹立って、儒教なんかクソくらえって(笑)。何が家族だって
わたしもワヤンに命を与えていた。それに息を吹き込むんだ。だから、わたしの呼吸と心の半分を、ワヤンに分け与える感じかな、半分を、さっきのワヤンたちに
- 語り手
- ナナン・アナント・ウィチャクソノ
- 聞き手
- 岸美咲
ほんで俺、だから大学経済学部やってんけど、経済学部が一番潰しきくで、って言われて、で案の定潰れたみたいな。はははははっ
ちょっとなんか行ってきていいよって言われても、知らんとこで、急に放り出されても。いっこの店でずっとおったかな。お酒飲んでずっと、ぼーっとしてたかんじやった
それがさ、その、田舎じゃ「九十九島せんぺい」売ってるとこなかってんやんか。その頃な。あれはどこで買ったんやろっていまだに不思議や
子どもを持ってかれたのがもうネックになってて、そういうときに知り合ったから……寂しいじゃないですか、ずっとひとりで。飛田の黒電話で毎日しゃべってました
ワイシャツを一ダース作るのに、生地はなんぼいる、縫い糸は何本いるという具合に、工業振興庁いうところで、買い主は所要量証明を、許可もろて輸入するLCを開くわけや
言うたら、変えることによって、ぼくのアボジの強制連行の歴史がそこで終わってしまうから
僕ちっちゃいんですけど、それちょっとちゃうんちゃうかなって。いま思えば嬉しかったんやろなと。新築の家をね
落ちる、いうたらもうスローモーションやで。一五〇トンの大きな神戸高速の桁がこっちにぐるーっと来て、どすん
朝来て、例えば将棋や麻雀や、そんなんやってね。お昼食べて、また戻ってきてやって。晩ご飯食べて、またやって。そんな感じで
あんた心臓麻痺おこすで、駄菓子買いに来て心臓麻痺おこしたらあかんで
子ども、風呂連れていったらもう、みんなが競争であれやん。裸にすんの待ってて、「洗ろたろー」いうて、ほいで「ゆっくり風呂入りやー」とかいうて
もうこの人じゃないとあかんっていうよりも、今、母から逃げたいって思ったから、逃げたんで
私もこんなん、自分がここに嫁に来て、ここまで自分でできるとは思わへんかった。「ええー風呂屋に嫁に行くのー。できるかなー、大丈夫かなー」って
あ、今日梅田の八天堂のクリームパン買いに行こうおもたら、ピッて行って、それ買うて帰ってくる……だけで、なんか、スッとすんねん
歯を食い縛りすぎたもんやから、ガキっていってちょっと歯が欠けたよね。嚙みしめるのも殴られる瞬間はよろしくないなというのは勉強になったんです
人は流れる
四歳過ぎてますけどね。面接だけしてください
学校と連携もとるし。だから最初の年ここで願書かいてやったし、先生も来てくれて。だからなんか、全然すっと入っていけて。なんなら一〇年続いてますけどみたいな
やっぱり人生設計立て直すというのが、二九歳より五三歳のほうが大変
あんな大きなストーブが透明なように真っ赤に燃えたその冬の思い出は、ちょっと得難いものやね
自分の親が生きれなかったぶん、まあ、少しでも長生きして、うん……子どもたちにとって帰る場所があるよっ ていう存在にはね、なりたいですね
すいませんけども、ちょっとそのご相談だけは受けかねます
んで、なら大阪行って、西成行ってみようて
よう、言われたわ。「やあ、みっくら、たたっくるされんど」言われてん
毎日ユニバでヤッホーしてて。ヤッホーし始めてからまたママが帰ってきたわけよ
みんな辞めたらあとみんな全部飲み屋になってるやん。天満でも。そやかい、なんにもその洋服関係のだけのやなしにやな
そういうつながり、人の手によって、こう、救われるっていうのがすごい大事やなとそのとき痛感した、かな
退院したら車がなかった。もう廃車されてんねん、もう乗ったらあかん言うて。ほんで車なかったらもうしゃあないわぁ言うて警察署行って、んで「免許返します」って返してきて
二一時には寝ます。時計の針が二一時を指したら、シンデレラのごとく
上の人はみな将校やんかな。その人はなんか、枕草子とかそんなん暇なとき教えてくれて。おもしろかったよ
後半のほうは弓いらないんですよねって言ったから、いりませんって言ったけど、やっぱり弓してくださいってなったりとか、コロコロするんねんか
でも結局そのお会計の伝票を見て、母が「ちょっと待ってて」って、アコムかどっか行ったんすよ。私たち三人待ってて。そのときの罪悪感がすごくて
いや覚悟じゃなしに、どうやってミイラになるんやろっていうその好奇心が先やった俺は
もうそら、聞くも涙、あれも涙やで。だってだんなは、ここにお金ガッバー入れて、アホみたいなな、赤鉛筆して、住之江競艇行くんやから
そう、それが全部いなくなっていった。みんな注文仕事してた
ほんだら、竹田プーっていう子が、「お菓子の御名は」って聞かれて、「ちくびです」って(笑)。もうみんな、ぶはははは。ちくびはないやろ
私、どこにでもそういう人おんねんなって。世の中はそういうもんになってるから、なんていうの、もう、気持ちが。もうどこに行っても私平気よ、たぶん
お父ちゃんはな、私を可愛がるというか、好き勝手はすんねんけど、私に対しての愛情はあんねん。それは子どもでも感じるねやんか
ミシンは動かされへんからな。アイロン台を起こして、押し入れがあったから、そこから布団出して寝てたと思うで。今みたいな立派な設備があるかいな
いまやから、もう、笑えんねん。なんでこんなことになんねんて、自分の人生いったいなんやねんて。こんなことは体験もしたくないわ
やっぱりな、生野区や。俺らが住んでるところはな
コップの底が抜けたような寂しさは、結局全然埋められてないです
今度一枚写真見してあげるわ。あんねん、一枚だけ、大事にしてる写真が
鍵を与えてるやついっぱいおる。前もそうやし隣もそうやし、何かあったら困るやん。帰ったら先座ってビール飲んどるやつがおるんやから
そこそこ人間味が溢れる、崩れてるって言うかね。街が綺麗すぎるとちょっと疲れちゃうんよね、なんか人間味があるほうが好きだから
ただ、高二のときに、部落民宣言をせんとあかんと言われて、それをしたのだけは、頭が真っ白になったのは覚えているけれどなぁ
要するにジャズの初めの頃の音楽や。せやからジャズのあの頃、タタタタタタタタタタターラ、とかあるやろ? タラタロトトトラタタターラ。あんな曲とかやな
いま思うとその姿は誇りに思えるな、と。隠そうとまったくしなかった。もうね、頭は高校球児みたいでデビューしたんで
堺筋の電話局の前に市電が一台止まってた。そいつはもう骨だけ。もう「電車の骸骨」ゆうのん見たん、わしは 初めてやった
劇団に入ってお芝居してみたら面白くって仕方ないっていうのがやっぱりあったんだよね。ほかのことをやって 何にも長続きしなかったけど、これはできるって感じ
僕の中で悟りにも似た感覚があって、名付けって一番最高のかたちの作詩やなと思って
夢はこの地でお店をずっとこの先、二〇年、三〇年できるかどうかは不明ですけど、なんか見届けたい
名簿、俺が作ったから、会員の名簿。大和川フライングクラブってつけて。うちら、飛行機飛ばす人もおるんやで
美味しいですよ。ちゃんと御座候のあんこで炊いてますから。それは毎年もう決まってるから、必ず
僕が、万博反対から、教区の体制をいろいろこう議論してた頃、教会の中の保守的な人たちは、「あいつは悪魔に憑かれてる」ていうのでね
西成で俺がギター持ってたらさ、急におっちゃんが「それ弾かせてよ」みたいなかんじで、下手くそな歌とか聴かせてくれたりすんねんけど
天王寺動物園のマレー熊は、よく動きが人間ぽいって言われてて、中におじさんが入ってるんじゃないかって
たまたま封切りになって、この子が観たいって言うから。で、神戸の行きつけの、MOVIX六甲に行った。わざわざ湾岸道路を車で走って。あれが私映画見た最後ですわ。映画館でね
最初は佐川急便、そんなんしてなかったからごっつい嫌がられた
わたしこの家でな、いろいろ日本の習慣を見習いながら、ここのご両親を大事にしたわけやんか、正直に言うとな
入り口に「銅鑼叩いてください」って銅鑼が吊られてて、銅鑼叩いたら一〇〇歳くらいのおじいちゃんがよぼよぼって出てきて
別に興味ないねんな、自分の名前とか。特になんか人が思ってる以上に記号でしかないから。どうでもいい、別に
そんときたまたま、ちっさい本屋さんがあったんで、見たらあのー、男性のね、ヘアカタログあったんですよ。それでたまたま
朝さ、朝、海見たら全員うんこしてんねやんか、浜辺で
あの競馬場行って、お父ちゃんと。1-4、1-5のやつこうてな、馬券。当たって。そのままでええのにとおもとってん、あたしの誕生日やから。ほんなら当たって。金魚こうて
普通に舞台だったんだけど、その舞台を立てて、そのときに「このまま就職して、ずっと社畜になるのかあ」っ ていう気持ちになって
カナダのおじやんも生きてたらそんでいいって言ってた。日本にいてたら戦争に連れて行かれて、もう絶対死んでるって、それ常々言ってたおばあちゃんね
闇ん中でみんなでじっと黙ってみたらどうなるか、声出したらあかん。闇に包まれる感じを味わおう。それをあとから文章にしようや、って
だってさ、顔面好きな男と結婚すんねんで、むっちゃ芸術家じゃない? 私よりパンクじゃない?
舞台の上に乗って、紙渡されてこの内容ですみたいなんを「そんなんできひんやん!」ってなって
売上もなんとか回復せなあかんしっていうんで。で、もういろいろやったけど。んー、そんなことないんかもしれんけど、俺はもうそんときはもうハッキリ言うて、一人でやってるぽかった
やっぱりそのお母さんにとって、まあちゃんはもうゴッドマザー
なんもこわない。なんにも怖くなかったよ。だって、家がそんなんやったもん。家にやくざ出入りしてくんのにさ、そんなん思うって変やんか
やっぱり性にあってたのよ。針や糸よりも金槌とバーナーのほうが
大阪の人間は全員阪神ファンやと思てたから。んで、来た一年目が九二年やってん。暗黒に咲く一輪の花や
あの古い家、懐かしいわ。ぶどうの木、四隅にな全部一面にぶわって。めちゃくちゃなるデラウェア。甘いしな
「ニューウェーブ・テクノ」で、おしゃれのルールがそこで「ペタチーン」って
あっこに安いラーメンあんねん。あれ買いに行こうて。三〇円か二五円か、一袋
私、人生で何回「ぎゃー!」って言ってるんやろ
ああ、大阪は大変だよ。大阪は大変だわ。なかなか大変
だから、しんどいって思って、家の中に閉じこもると、絶対ダメやと思う。見られていくらやから
桜の時季とか秋のモミジの時季とか、そういうときにみんなチョゴリを着てね。夜遊会というのが盛んでしたんやわ
ぷーんと匂いしたし、おこた温かかったしね。ほんまに温かかった。それは覚えてる。それぐらいちゃうかな。からどうっていうことはなかった
ヒッチハイク。家から七〇キロくらい。家帰って着替えて、パーティ行って。で、朝六時戻って、誰もわからんように。寝てる感じにして、寝てないけどそのまま仕事して
この会社を作った神様がこういうことを教えてくれてる、と。疑う人はおれへん。みんな信奉してた。だからまあ宗教でもあるし、軍隊みたいなもんやわな
こんなにフリージア置いてどうするんですかって言うから、いや、本人好きだったから、いっぱいあげてやってよって
何十年も私は私だけなんかなあ、不思議やなあ、途中で誰かと替わったりせえへんのかな、そういう感覚ですよね。明日起きても、また私は私なんやって
せやけど幸せな人やで、あの人は
彼氏のこととか、怒り狂ってたので。「この社会、くそくらえや」と思いながらずっと勉強してて
そういう意味では全然、気持ちが萎えるとか、そういうことはなかったですね。もう、俺の進む道はこの、政治の、こっちの道っていう
信頼されてるとか、頼られてるとか、そっちのことのほうが大きいねんな
校庭が傷むからいうて「下駄を履いてくるな」と体育の教師が言うわけ。でも靴のない子どうすんねん。私ら何人かで校長室行ったことあるわ
自分でね考えてね、つくんのが好きで、これもこれも。こういうのが好きでね。やっぱり根っから好きやんなこういうの、生地つくんのんが
えらい遅なってすんませんとか言うて返事くんのやけど、おばあちゃんはそんなんあれへんからハガキで、返事、「今度いつ帰ってくんのですか?」って
X JAPANのグッズが棺の中に入ってて。「好きやったんや!」って。すごい明るい娘さんで、悲しい気持ちで行ったけど、めっちゃ笑って帰ってきたみたいな感じやった
でもまあたしかに、そりゃ「ゴキブリ好きになれ!」って言われても無理じゃないですか
淀川を渡ると、帰ってきたという感じでホッとするということもあるし。東京の人は、淀川を渡ると商売の本場 に行くと思うから緊張するとよく言っていたね
もし誰かと知り合ったら、それは大事にしいや、たまたま知り合ってるんじゃないで、言うて。どっかでなんか、つながりあって知り合ってんねんで、言うて
意外とな大人しい子やってんで。想像できへんやろ。いやほんま大人しい子やってん
そそそ、ヤクザは警察と一緒やから
同僚の人で人権とかうるさい人もさ、その在日とか部落差別にうるさい人もゲイとか嫌いやったもん
えーなんでーってげらげら笑ってるときに死んじゃったんだよ、笑いとともに逝っちゃった
その代わりね、キーパンチャーやからね、あの、マニキュアしてね。手動かすのにね。マニキュアしてたわ。わりと早うから
そんなになるの。あんたが三〇くらいで、私が五〇くらいやと思ってたわ、もう九二やのになあ、ははは。えっ九六?
なんか家族でも我関せずで、個人個人マイペースで生きて、生きてた感じやなあ
おもろいよ。私、辞めたいと思ったことは一度もないもん
私も一緒にツートントントンてするやん、授業やからな。そしたら隣のやつがさ、卒業して解放軍行ったやつかな。「おーお前日本と交信してるんか」とかそんなん言われてたけどな
入院してるときから点滴ぶら下げたままがらがらいうて飲みにきて。看護婦さん迎えに来て。次の日もっかい来るからな
もうな、顔隠してても名前とかそういうのでわかんねん、エスパーはいんねん
教誨に行ってた刑務所の、教育部長と刑務所長と二人、「得度したい。お坊さんになりたい」って言って、うちに来はったんですよ
それは要するに、アッラーが「お前は今回会うべき人に会ったんだ」と言ってくれると
いやいや、ちょっと待って、私生きてるし。死んでないし。生き霊って怖いやん
あとがき――世界でいちばん、普通の街 岸政彦