『ちくま文学講読〈上級編〉』監修者のことば

虚構に慣れていない人は、いとも簡単に虚構にたぶらかされます。新しい言葉は世界を新鮮に見せる一方、虚構の幻想をもたらすのです。それでみんなが幸福になれればいいのですが、結局、ふりまわされるだけふりまわされて、切り捨てられたものも時間も戻ってこない。残酷ですが、歴史はそうしたことをくりかえしています。

日本文化は素晴らしい、日本は特別だと言い聞かせるのも同じことです。くりかえし言葉にしているうちに、あたかも幻想がほんとうのように感じられる。不安を抱え、自己肯定感が少ないと、とりわけそうした虚構に頼りたくなる。それは誇りや愛情とは無縁です。真に時代の扉をあけるのは、虚構や言葉にふりまわされことなく、その魅力とともに限界を知るものなのです。

もちろん、人は言葉や言葉に代わる手段がないと社会生活を送ることができません。人は虚構によって希望をもち、苛酷な運命に耐えることができます。国家も虚構のひとつですし、宗教もまたそうです。ときに恋愛の言葉も虚構に近いことがあります。多くの人がその虚構や言葉を信じると、それが現実であるかのような強大な力を発揮する。だからこそ、虚構や言葉は重要なのです。

人類の文化のなかでも、文学は言葉から成り立つ表現形式で、虚構を扱うことを得意としてきました。たぶらかすことを使命とするから、手に汗にぎる読書体験が生まれました。それだけに、すぐれた文学は、言葉の力をまざまざと示し、言葉によって人が呪縛され、ときに解放される瞬間を見せてくれます。まさに本書の課題は、文学を通して虚構や言葉に対する感性と知性を磨くことにあります。ぜひ小さな鏡面に映る大きな世界に触れてみてください。

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