ちくま小説入門 改訂版 編者のことば

一六、七世紀頃にヨーロッパで生まれた小説は、それ以前のさまざまな神話や叙事詩、物語を吸収してみるみるうちに増えていった。神々や特別な能力をもった英雄や美しいお姫様たちの登場する物語から、次第にその社会で多数を占めるようになる階層のふつうの人々を描いた読み物として小説が出現したのである。伝統的な文化や生活から切り離され、いやおうなく変化することを宿命づけられた近現代の社会に生きている私たち。そこで恩恵を受け、喜怒哀楽を共にする人々が小説を受け入れ、小説を育んできたのである。

小説は差異の織物だと言われる。あらすじだけを抜き出してみれば同工異曲の物語も少なくない。しかし、それが千差万別のヴァリエーションをつけられて、まったく新たな小説となる。小説は、その時代、その社会のさまざまな流行や風俗を取り入れ、言葉を通して、いまこのときを生きているものたちの心のうちを探る重要な入り口となっている。

小説は、人々の孤独と葛藤、喜びと苦悩とを描き出す。もし、社会の問題点や矛盾を把握し、その解決策を知りたいのであれば、政治学や経済学・社会学などの学問や批評が答えに導くための糸口を用意してくれるだろう。小説はそのような要望に応えてはくれない。しかし、そうした学問が万能ではないことも小説は知っている。もし、ほんとうに答えが見つかるものであれば、世界はこのように戦争や貧困、不条理に満ちてはいないだろう。批評や学問は、現実の世界をある一場面、ある理屈のレベルで切り取って、議論をつみあげていく知的営みである。世界を理解し、変えるための糸口は与えてくれるかもしれないが、自分自身の悩みや苦しみを分け持ってくれるものではない。

依然として、いまもなお小説は日々生み出されている。書く人がいて、読む人が絶えない。読者が求めているのは答えだけではないのだろう。変化する世界のただなかで、そこで生きるものたち。その葛藤を感じ取ることによって、納得できないこの人生とどのように折り合うかを考え、生きて行くための必要な言葉を見つけようとしているのではないだろうか。

善悪や真偽の判断のつかないことがこの世界にはたくさんある。一方、社会は大量の情報にさらされ、押し合いへし合いしながら変化の速度を競うために、素早い判断を下すことを求めてくる。割り切ろうとする力がそこに働く。しかし、私たちの人生はそのようには割り切れない。たとえ原因や理由が分かったとしても、取り返しのつかない後悔や埋めがたい喪失感は残る。分かるということと、心が揺さぶられることは同じではない。小説は私たちの生と死に寄り添い、葛藤を葛藤のまま、まるごと提示する。小説の魅力はいつもそこにある。

初版の発行から一〇年。パンデミックと戦争が世界を不安と恐怖に落とし込むなか、だからこそ『ちくま小説入門 改訂版』を、あえてお勧めする。

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