ちくまの教科書 > 国語通信 > 連載 > 舞姫先生は語る第三回(5/5)

舞姫先生は語る

第一回 『舞姫』のモチーフについて
第二回 太田豊太郎の目覚め
第三回 エリス――悲劇のヒロイン
第四回 太田豊太郎と近代市民生活
第五回 『舞姫』の政治的側面
第六回 結末
鈴原一生(すずはら・かずお)
元愛知県立蒲郡東高等学校教諭

第三回 エリス――悲劇のヒロイン
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エリス一家の生活

 豊太郎はエリスを送って彼女のアパートに行きます。彼女たちの住まいは、四階の屋根裏部屋でした。家賃は上の階に行くほど安くなりますから、一番貧しい階層が住むところです。何故上の階の方が安いかというと、生活が大変だからです。当然のことながらエレベーターなどありません。燃料や水を担いで、四階までエッチラオッチラと狭い階段を登らなければなりません。燃料は石炭。水は、十九世紀の半ばには上水道が普及し始めますが、恐らくここまでは届いていなかったと考えられます。地上の井戸からバケツで運んでいたでしょう。余分なことですが、ドイツの流儀に従えば四階は五階になります。四階だと思うのはゴカイだということになるのですが、鴎外はどちらの流儀に従ったのでしょうか。

 ドアの把手は錆びた針金で代用していました。正に極貧の生活です。中にいたのはエリスの母でした。「エリスが帰ったの」という返事が終わらぬうちに荒々しくドアが開いたのは、今か今かと待ち構えていたからでしょう。母の姿は、龍之介が『羅生門』で描いた「老婆」ように醜悪そのものです。エリスが入るのを待ち兼ねたようにドアを勢いよくバタンと閉めてしまいました。誠に失礼な振る舞いで、無教養で下品な人格を表しています。

 中に入ったエリスとその母は言い争いを始めました。恐らくこの原因は母の期待していた人物ではなかったことにあるでしょう。つまり、シャウムベルヒではなかったことに。しかし、それもすぐに収まります。口論がすぐに収まったのは、連れてきた男・豊太郎が金づるであることを説明したからでしょう。金にさえなれば白人であろうが黄色人種であろうがどうでもいいことなのです。母の態度は一変します。豊太郎は慇懃に部屋の中に招じ入れられます。ドアの内側は台所で、正面の部屋はドアが半開きになっており、白布で覆われたベッドがありました。父親の遺体が置かれていたのでしょう。もう一つの部屋は通りに面した屋根裏部屋で、天井も無く、梁には紙が張ってありました。質素というより粗末極まりない部屋です。窓際にはベッドがありました。中央には美しいテーブルクロスを掛けた机があり、その上には書物一、二巻とアルバム、そしてこの部屋には凡そ不釣り合いな、豪華な花束を生けた花瓶がある。「似合はしからぬ価高き花束」と、いかにも意味深な表現がされています。この一家に豪華な花束を買う余裕は全く無かったでしょう。何故この部屋だけがこざっぱりとして、そして豪華な花束があったのでしょうか。このしつらえは一体何なのでしょう。

 エリスと豊太郎の出会いの場面は、次のようにも考えられます。

 エリスは母親に命ぜられてシャウムベルヒを迎えに行こうとしていたのではないでしょうか。それが、つらさ悲しさのあまり、途中で泣いていた。近づいて来た足音は、待ちくたびれて自らやって来たシャウムベルヒではないかと錯覚したエリスが振り返った。ところがそれは黄色い顔をした日本人・豊太郎であった。要するにエリスの母とシャウムベルヒとの間には話がまとまっていた。母親に抵抗出来ない弱いエリスは、母に強制されて泣く泣くシャウムベルヒを迎えに行こうとしていた。あの部屋に不釣り合いな豪華な花束は実はシャウムベルヒからの献花であった。つまり、精一杯に演出されたあの屋根裏部屋は、シャウムベルヒのため用意されたものであったと考えられます。ところが、そこへ豊太郎という邪魔者が突如登場したのです。すんでのところで獲物を奪われたシャウムベルヒの怒りはいかばかりか。それが後にエリスに対する嫌がらせとなって表れて来るのです。

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