第三章 俳句春三句
b 春風や闘志いだきて丘に立つ 高浜虚子①「はるかぜ」「しゅんぷう」?――実感に基づく「春風」は「はるかぜ」とも「しゅんぷう」とも読めます。この句にはどちらの読みにも基づいた解説があり、どちらか一つに定まっているというわけではないようです。しかし、「春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)」という語はありますが、「しゅんぷう」が独立して使われることはありませんから、普通は「はるかぜ」でしょう。ただ、この句には「闘志」という漢語調の語があり、それに呼応させれば「しゅんぷう」の方がふさわしいという気もしてきます。また、句全体の調子も「しゅんぷう」という硬い表現がふさわしい感じもします。そういうことで、教室では生徒の読みも二つに分かれてきます。そこで重要なのが実感なのです。つまり、丘を上って少し汗ばんでいた身体が春の心地よい風に優しく包まれたときに「しゅんぷうだなあ。」という感慨は生まれません。やはり「はるかぜ」が実感に寄り添った読みということになるのです。頭で考えるのではなく作者の実感に即して読むということが必要なのです。 ②感動の中心は?――補助線を引く中村草田男の句に、切れ字が二カ所用いられている「降る雪や明治は遠くなりにけり」という有名な句があります。この「――や――けり」という形は、取り合わせの句では割に見られますのでそれほど特別なものではありません。一つの句に発見や感動は一つですから、二つの感動や発見を表す二つの切れ字は俳句の作句法では禁じられていることですが、一つの感動が次の発見や感動の契機となったり、二つの発見が関連して一つの感動をもたらしたりする場合は、そうはならないのです。 二十年ぶりに母校の小学校を訪れた時に降りしきる雪、「ああ、しきりに雪が降っているなあ。」という感動がまずあります。そして、その雪が郷愁を呼び起こすのでしょう。そこで思いをめぐらすのが自らの小学生時代、つまり「明治」なのです。それが「明治は遠くなりにけり」という時の移り変わりの発見・詠嘆をもたらしたわけです。初めの感動が次の大きな感動をもたらすという構図なのです。 「春風や」の句にも同じような構図があります。あえて「切れ」を強調すれば「春風や闘志いだきて丘に立つかな」でしょうか。小高い丘を上ってきた道を振り返りつつ、広がる景色に未来を思う時に穏やかな春風。「ああ春の風だなあ。」という感動。その感動に包まれながら、そこでふつふつと身内にわき起こる感慨。それが「闘志」なのです。「闘志を抱きながら丘に上った」のではなく、眼下を一望したとき、そこで来し方行く末に思いを馳せたときに、春の風に命を、息吹を与えられて生まれた感慨が「闘志」なのです。「春風や」という詠嘆が、次の「闘志いだきて丘に立つ」という自身の姿の発見につながっていることが重要なのです。そういう意味では「丘」も重要ですね。小高い丘の上からの眺望が未来に立ち向かう思い、この場合は「闘志」をもたらしているといえるからです。 ③どのような闘志?――句の背景小高い丘の眺望から生まれ、春風に育まれる思いは未来に向けてのものなのでしょうが、それが「希望」や「夢」ではなく「闘志」であるということが、この句の特徴です。これにより、作者はこのとき何かと相対し、それに立ち向かっていたことがわかります。この「闘志」について教室で質問すると、生徒たちは当然自分に引きつけて考えます。「作者は何かに挑んでいる最中である。」とか、「何かの戦いの前である。」とかです。試合や受験の前などをイメージしているのですね。「丘」からの遠景を前にして「春風」に包まれ、身内にそのような「闘志」のわき起こることを感じ、その思いを新たにしているというのです。確かに自らの経験に引きつけてこの感動を実感することは鑑賞として重要なことです。しかし、この句の「闘志」には背景があるということも重要なことです。 この句は、子規没後の『ホトトギス』の中心として、また、季語や定型にこだわらない新傾向俳句の河東碧梧桐に対して、子規の興した伝統俳句を守るために奔走していた時の作なのです。したがって「闘志」とは、この碧梧桐に対するものを指すわけです。俳句を守るために、同じ子規門下の碧梧桐と戦うという思いを新にして丘の上に立っている自分を再認識しているのですね。そういう意味でも俳句史に残る句なのです。 俳句がその成立の「場」と無関係には存在することは難しいと先述しましたが、一句の背景にドラマがあるという発見もまた俳句の鑑賞を深める契機となるのではないでしょうか。
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