第三章 俳句春三句
c 春ひとり槍投げて槍に歩み寄る 能村登四郎①句切れは?――季語と季感この句は、上五「春ひとり」で切れそうなのですが、「ひとり」が、中七「槍投げて」に続いていますから、「春/ひとり槍投げて槍に歩み寄る」という「切れ」になります。さらに「ひとり」は、下五「歩み寄る」にもかかっていて、「春/ひとり槍投げて、ひとり槍に歩み寄る」という仕組みになっているのです。しかし、「句切れ」という意味では、やはり「春ひとり」で切りたいという思いも捨て難くなってきます。この読み手の揺れが、この句の狙いのひとつなのでしょうし、この重層性がこの句のヒミツにもなっているわけです。 季語は当然「春」ですが、春にも様々な季感があります。その季感を示しているのが「ひとり」です。「春愁」という季語があります。なんともいえない憂愁・倦怠感が春にはあるのですが、この繊細な季節の陰影が高校生の季節感からは遠いもののようで、なかなか伝わりません。そこで私の授業では「春なのに……」と説明しています。「自然の息吹が吹き込まれる春。自然も人も装いを新たにして身内から活力がわき出るような春。そんな春なのにひとり愁いに沈んでいる。」と説明するといくらか伝わりやすいようです。 そして「春なのにひとり」という春愁の季感が、この句の「春ひとり」という上五に漂っているのです。それにゆえに、単純に「春/ひとり……」というように切れないわけなのですね。まず、「春ひとり」と読み、春愁の季感を得ながら読み込む中で「春/ひとり槍投げて……」の仕組みに気づくという面白さがこの句のヒミツなのです。 ②発見は?――表現に寄り添う作者は「槍投げ」に何を発見したのでしょうか。これが二つ目のヒミツです。おそらく作者は離れたところからこの槍投げの様子を見ていたのでしょう。その様子の不自然さ、奇妙さに気づき、その様子を注視します。そしてそこに、いろいろなことを発見するわけです。 「槍投げ」は、[槍を頭上に高く掲げるようして走り出す]→[跳ねるように槍を投げる]→[止まって槍の行方を見守る]→[槍に歩み寄る]→[歩いて元に戻る]→[槍を持って走る]……、この繰り返しです。確かにこの繰り返しにはどこか惹かれるものがありますね。 遠くに投げれば投げるほど槍投げの目的にかなうのですが、その遠くに自分で取りにいかなければならないという皮肉がそこに見えます。また、走る・投げる・止まる・歩く・戻る、という忙しないような、のんびりとしてカクカクとした動きにも滑稽さが見えます。そして「ひとり」に注目すれば、「ひとりで投げて、ひとりで取りにいく。」という「ひとり遊び」に漂う憂愁も見えてきます。そこには諧謔もあればペーソスも感じられるわけです。春愁もあれば、幼い頃の郷愁さえも漂っているようです。 そして句にこのような動きをもたらしているのが、先述した「春ひとり/」と「春/ひとり」という重層的な切れなのです。「春ひとり/」とまず読み、「春/ひとり」と読み直すことで、このカクカクとした動きと槍投げの特徴的な動きが重なるとともに、「春ひとり」という春愁と「ひとり槍投げて」という「ひとり遊び」の愁いも重なり、この句のイメージをさらに豊かなものとしているのです。ということで、私の教室ではこのような二つのリズムを持った句のもたらす効果の面白さにも注目しています。
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