第三章 俳句春三句
a バスを待ち大路の春をうたがはず 石田波郷①春のいつ頃?―― 季節の実感を捉える季語には、その季節全般に渡るものと、初めの一ヶ月、中の一ヶ月、終わりの一ヶ月に当たるものがあります。春なら、三春・初春・仲春・晩春がそれに相当します。それにも関わらず、ただ季語を抜き出し、その季節を春夏秋冬もしくは新年と指摘して満足しているだけでは、句が具体的なものとなってこない場合があります。季節の実感をともなわなければ句の鑑賞もおぼつきませんね。 この句などもそうです。春のどの時期かが重要なのです。授業では「この句の春は、初春・仲春・晩春のどれ?」というヒミツから始めていきます。「バス」や「大路」は、そのヒントになりそうもありませんから、当然「うたがはず」という表現に注目することになります。この「疑いようもなく春である。」という確信はどこから生まれてきたのでしょうか。 作者が東京・神田の大通りでバスを待ちながら、周囲の風景などに何げなく目をやっている時に、その脳裏にふと「もう春?」という思いがよぎったのです。大路の雰囲気に思いがけず春を感じ取ったのです。そういう疑いの思いで周囲を見渡してみると、大路を行き交う人々の動きは何となく軽やかですし、装いは春のものです。街路樹は芽吹き出し、陽射しもどこか暖かさを抱えた明るさがあります。「あれもこれもみな春だ、疑いようもなく春だ。」というわけなのです。「うたがはず」とは、疑いの思いで周囲を見渡したという経過があるのです。この句における発見・驚きはこれです。 春の到来に気づかなかった作者の装いは、当然冬のものです。周囲との違いに戸惑いが生まれたかもしれませんね。春と思って周囲を見渡せば、すべてこれまでと違って見えるというわけです。ということで、この句は初春のもの、それも早い時期のものということになります。私の授業では、このあたりの作者の発見の過程や驚きを実感させることを重要視しています。 ②なぜバス?――時代を考える「なぜバス?」ということをヒミツにしたとき、「別にバスでなくても、汽車や電車でもいいのでは?」という疑問が返ってくることがあります。俳句は日常生活に取材することが多いわけですが、その生活スタイルも時代とともに変化してきます。句が作られた時代のままでは、現在の高校生には伝わりづらいものが多くあるのです。句を鑑賞するためには、やはり多少説明をする必要が出てくることもあるというわけです。この場合の「バス」については今も変わらずあるわけですが、この句が作られた当時と現在とでは、バスに関する見方や感じ方が異なっているのです。その説明は必要だと思いますね。だからといって注釈のいる句が時代遅れで古くさいというわけでもありません。そういう時代感を知ることで、生徒のものの見方・感じ方が変わってくる場合もあるのです。新しい題材がすぐに古びるのは対象の新奇さに頼っている場合が多いからであり、ものの本質を捉えた句の場合はそう簡単には古びないものなのです。 この句が作られたのは昭和8年です。この頃の街中には馬車が走っていて、バスはまだ珍しく、都会を象徴するモダンな乗り物だったのです。したがってこの時代の「バス」には現代にはない新時代のイメージがあり、そのバスが通る大路こそが都会の大通りということになるのです。この「バスを待ち」という表現にも、「今日は馬車ではなく、バスに乗るんだ。」というささやかではありますが、一種のときめき感があるようにも思えます。この「バスを待つ」ささやかなときめき感があるからこそ、大通りの春を感得したともいえるのです。また「バスを待ち」は、「バス待ちて」や「バス待つや」にはない、おおらかでのんびりしたリズムをもたらし、バスを待ちながら周囲を見渡すという時間の流れを感じさせる効果があります。内容と表現の一致というわけです。 この句は作者20歳の頃の作です。青春俳句の旗手と呼ばれていた時期の代表句です。新景物の「バス」への関心もその若さゆえなのでしょう。冬、いつものように厚着の装いの肩をすぼめながらバスを待って立っているとき、ふと発見した春の到来。それを確信したとき、周囲の様子が突然変わってみえる鮮やかな瞬間。モノクロの世界が鮮やかな色彩を帯びるその瞬間は、暗い世界にすっと未来に向かって光が指し込んだような印象でもあります。多分その印象が、この句を青春俳句の代表句とするゆえんでもあるのでしょう。
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