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古典を読む

はじめに……文章に即して「古典」を読む

古典教育の可能性を探る

 大学で社会学を専攻して教師になったわたしにとって、古典は苦手な領域であった。古典が苦手なだけに、現代文に自らの活路を見出だすしかなかった。気が付いたら教師経験も二〇数年。何とか現代文は、そこそこの自信を持って取り組めるようにはなった。

 そんなわたしがここ数年、古典に興味を持ちだした。といってみても、もとより専門的な知識も教養もないだけに、様々な資料をあたって……という方法はなかなかにとれない。もっぱらその文章(教材)を読むことを試みている。

 古典は、教師の方が生徒に比べて圧倒的な知識量を持っている。文法や語句の意味一つとってみても、生徒は知らないことが多く、教師は知っている。そのことが古典の授業をある意味やりやすくしてくれる。知らない生徒に知っている教師が教えるのだから、知識量の差が教師の権威となりうる。何を教えるかも、はっきりしている。

 しかし、一方でこのことが古典の授業をつまらなくしている要因ともなっていはしないか。知識量に頼る以上、知識の伝達が授業の主たる目的となってしまう。知識の伝達を否定するわけではないが、それが中心となる授業に、生徒はさほどの興味を示さないのではないか。

 大西忠治(おおにし・ちゅうじ)氏は国語の授業における読みについて次のように述べている。

教師の研究・理解・解釈・知識のすべてを〈ないことにして〉生徒の位置に身を置き、生徒の無知に立脚して、ただ読解力だけを使って成立するのが、国語教室での、国語授業の読みの本質なのである。
(大西忠治『入門・科学的「読み」の授業』 明治図書出版 1990年)

 古典をできる限りその文章に即して読み深めることを追求したい。一語一文にこだわりながら読んでみようと思う。現代文の授業では、私たちはそのように授業をしているではないか。文法や、時代背景・歴史的な知識を教えるだけではなく、別の作品を引用して文章を説明するのでもなく、あくまでもその文章(教材)にこだわって読みを深めてみたい。そこに古典教育の新たな可能性があるのではないかと考えている。

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