文章に即して古典を読む
『土佐日記』「男もすなる」(冒頭)
●冒頭文「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり。」を読むこのあまりにも有名な書き出しは、伝聞推定の「なり」と断定の「なり」の違いを説明することに重点がおかれるが、その表現の意味は意外に読まれていないのではないだろうか? ある指導書には次のように述べられている。 当時の「日記」は男性の手により漢文体で書記された公的記録が通例であるが、作者が自分を女性に仮託して記述しようとする試みを意図する。 ここには作者と語り手のはっきりとした分離があるのだが、その点は現場ではあまり問題とされない。女性に仮託したのだから漢文の日記ではなく、仮名交じりの日記が書かれるとは説明されるものの、語り手と作者の距離が『土佐日記』で教えられてきたようには思えない。したがって、その後に出てくる「ある人、県の四年、五年はてて、……」(『精選国語総合 古典編 改訂版』37頁4行目/『国語総合 改訂版』249頁6行目)の「ある人」という表現も、手許にある教科書では「貫之のこと」とあっさりと片付けられてしまう。なぜ作者・貫之は、自分のことを「ある人」とするのか。語り手を女性に仮託する意味はどこにあるのか、そういう問題は『土佐日記』の授業では触れられないままなのである。
|
|||||||