文章に即して古典を読む
「熟田津に……」の歌を読む
●「月」と「潮」A案では、「月」から「潮」への変化を読み取った。それでは「月を待つ」とはどういうことなのか、また「潮もかなひぬ」とはどういうことなのか。「月待てば」には、二つの読みが考えられる。一つは、「月の出」を待っているという読み、もう一つは「月の満ちる」のを待っているとする読み。斎藤茂吉の『万葉秀歌』は次のように述べている。 「月待てば」は、ただ月の出るのを待てばと解する説もあるが、此は満潮を待つのであろう。月と潮汐とには関係があって、日本近海では大体月が東天に上るころ潮が満始るから、この歌で月を待つというのはやがて満潮を待つということになる。 月の出=満潮と考え、「月が満月でほがらかに潮も満潮で」船出をすると読んでいる。絵になる光景であるし、以前は私もそのようにこの歌を読みとり、教えていた。 しかし改めて考えてみると、満月が出ているとしても、なぜわざわざ夜に船出するのだろうか。昼間の方が視界もよいし、航海は安全ではないのか。また、満潮の中を船出するのも、その方が船を出しやすいように思ってしまいがちだが、満潮は船出にとってどのようなメリットがあるのだろうか。まさか船が浅瀬に乗り上げているわけでもないだろう。 そのように考えていたときに出会ったのがある座談会であった。直木孝次郎・稲岡耕二・益田勝実の三氏が『万葉集』のこの一首をめぐって語りあっている「〈座談会〉月・潮・風」(『文学』1988年6月号)で、益田氏は月の出について次のように述べている。 「月は、ありさえすればいいと思うんです。月の光で航行するというんだったら、それは満月の方がいいんですよ。しかし、月というのはあれは方角を知るための手がかりですから、皎々と照らしてもらう必要はない。」 そして「潮もかなひぬ」については、益田氏は次のように述べる。 「(潮には潮汐の潮と、潮流の潮との両義があります)……従来の諸注のように、満潮ということにしがちだけれども、満潮時に船出して何の得があるかということですね。熟田津が浅瀬で、そこに官人の船が座り込んでいたら、それは満潮にならないと浮かばないけれども、そんなばかばかしいやり方で当時の海洋民が船を操ったわけはないんだから。」 「潮もかなひぬ」の「潮」は、潮汐ではなく、潮流だというのである。そして稲岡氏も次のように述べている。 「その潮流を一番うまく利用するために、潮流が止まったそういう時間内に熟田津を漕ぎ出して行って、そしてその潮流にのるということでしょう。」 潮流にのるということであれば、夜に船出する意味も理解できる。また、月も満月である必要性はなくなる。月の出を待つとは、方角を示す月をまつことであり、さらには潮の流れが変わるのを待つことでもあったことになる。 直木孝次郎氏は、この問題について次のように述べている。 エーゲ海や瀬戸内海のような多島海では、昼間は海から陸へ向けての風(海風)が吹くので、船を出しにくい。夜間はそれと逆に陸から海に向けての風(陸風)が吹くので、船出に便利である。航海術の幼稚な時代の多島海では、夜の船出はむしろ普通のことであったと考えられるのである。 直木孝次郎『夜の船出』(塙書房 1985年)
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