後期ハイデガーから示唆を受けて、ソクラテス・プラトン以来の「主観性の哲学」とヘブライズムの「神という名の巨大な主観性」の合体が、「西洋形而上学」であり、これは「存在の忘却」であったとしている。そしてソクラテス以前の「存在への還帰」を呼びかける書である。
その意味で日下部吉信は既成の哲学といわれているものを根底から覆すような画期的問題提起を行っているのである。根底から存在の意味を問い直すことが、本来の意味で哲学と呼ぶべきだとしたら、この書こそ哲学の真骨頂であろう。
またソクラテス以前の哲学者についての豊富な文献を縦横に駆使しての分析は実に見事であり、説得力がある。特にピュタゴラスやデモクリトスなどについての分析は躍動感にあふれるものである。しかも決して難解ではなく、単純な図式の下できれいさっぱり整理されている。その意味で実に明快な書物であり、ギリシア哲学への全く新しい入門書としても注目されるべき作品になっている。
この書を読み応えのあるものにしているのは、文献学的な興味を超えて、著者の存在へのあこがれ、自然へのあこがれが文明に対する危機感とともに清らかな鐘の音となって鳴り響いてくるからである。そこに著者日下部吉信の若々しいパトスが迫ってくるのを覚えて、こちらまで胸が熱くなるのだ。
その意味で日下部吉信は既成の哲学といわれているものを根底から覆すような画期的問題提起を行っているのである。根底から存在の意味を問い直すことが、本来の意味で哲学と呼ぶべきだとしたら、この書こそ哲学の真骨頂であろう。
またソクラテス以前の哲学者についての豊富な文献を縦横に駆使しての分析は実に見事であり、説得力がある。特にピュタゴラスやデモクリトスなどについての分析は躍動感にあふれるものである。しかも決して難解ではなく、単純な図式の下できれいさっぱり整理されている。その意味で実に明快な書物であり、ギリシア哲学への全く新しい入門書としても注目されるべき作品になっている。
この書を読み応えのあるものにしているのは、文献学的な興味を超えて、著者の存在へのあこがれ、自然へのあこがれが文明に対する危機感とともに清らかな鐘の音となって鳴り響いてくるからである。そこに著者日下部吉信の若々しいパトスが迫ってくるのを覚えて、こちらまで胸が熱くなるのだ。