第一章生還者の告白では、テレビで見た映像が蘇ってくる。男たちが川上側に立ち、女,子供を守っている。既に腰まで濁流に洗われていた。わたしはこの映像を見た瞬間「これはだめだ」と直感した。女性が一人、こちらを向き大きな口を開けている。全身びしょぬれであるにもかかわらず、白い大きな傘を差していた。わたしはこの異様な光景が、静止した一枚の写真となって脳裏に貼り付いて離れない。まさに絶望の淵に立ち、死にたくないという瞳だけが光っていた。
わたしはこの後どうなるかは容易に想像できた。見ることは罪悪と感じて、テレビから目をそらした。神の救いは無かった。その少し後、悲鳴ともつかぬ音がして、振り向くとテレビには濁流しか映っていなかった。
その瞬間、カメラを回していた人が、それを止め助けようとしても、テレビから目をそむけたわたしが、仮に、そのままドラマを見ているように見ていたとしても、結果は変わらなかったであろう。現実は動かし難い冷酷なものであると思う。
第二章のダム管理所では、最初にタイトルを見た時、ダムカンとは何だろうと思った。わたしの知識の中では解決不能な言葉であり、本を開いてからなるほどと納得した。ここではパソコンというキャンパスに言葉という絵の具を塗り込んで描きあがった一枚の絵を眺めている様な美しい風景を想像した。
職場といえば、今から三十五年も前のことになるが、教員の社会を覗いた事がある。当時の学校は社会から隔離された、閉鎖社会であったように記憶している。何とかモンスターが出現する開かれた現在の社会がよい訳でもないので、この事を批判しているのではない。ただ、その中で働く教師は変人・奇人の類に映った、外界では通用しないことがここでは正論としてまかり通っている。独善的な考えが支配しているこの社会で、子供たちが教育というものを受け成長していくのかと思うと心配になった。
ダム管理所という職場が、どんな所で、どんな事をやっているのか、その結果どうなるのかということが明るく描かれている。しかし、その職場が実は、一般の人にはほとんど御目にかかれない閉ざされた社会であるということが、この小説の大きな特徴であると感じた。
ダムという途轍もなく大きな建造物を背負っている人々の責任感というか、むしろダムがのしかかってきて潰されそうになる男達が、ダムを放流することで、その圧力を和らげる、精神的にも逃避する様を時間単位で表現しているのが、第三章放流。
ダムを守ることが使命であり、ダムが決壊した場合下流の町も助からない、やむを得ない処置であり、手順も法令にのっとって違法はない。都宮はその様に主張する。川原でキャンプしていた数十人の人がいた事も把握していた、警告も発したが彼らは無視した、その時既に死に神という悪魔が大きく両手を広げ、キャンパー達をその胸元に引き寄せていたと大田も考えている。「とにかく、やることやったで、連中のことは警察や消防に任そうや。我々はダムと下流の町ィ守らんといけんでな」。閉ざされた社会の中で働く男たちの、その中での正論。
フィクションであるなら、キャンパーに落ち度があっても命がけで救って欲しかった。キャンパー達は自分の身勝手な行動が、いかに多くの人の命を危険にさらしているか反省の涙を流すという方向は無かったか。
わたしはこの後どうなるかは容易に想像できた。見ることは罪悪と感じて、テレビから目をそらした。神の救いは無かった。その少し後、悲鳴ともつかぬ音がして、振り向くとテレビには濁流しか映っていなかった。
その瞬間、カメラを回していた人が、それを止め助けようとしても、テレビから目をそむけたわたしが、仮に、そのままドラマを見ているように見ていたとしても、結果は変わらなかったであろう。現実は動かし難い冷酷なものであると思う。
第二章のダム管理所では、最初にタイトルを見た時、ダムカンとは何だろうと思った。わたしの知識の中では解決不能な言葉であり、本を開いてからなるほどと納得した。ここではパソコンというキャンパスに言葉という絵の具を塗り込んで描きあがった一枚の絵を眺めている様な美しい風景を想像した。
職場といえば、今から三十五年も前のことになるが、教員の社会を覗いた事がある。当時の学校は社会から隔離された、閉鎖社会であったように記憶している。何とかモンスターが出現する開かれた現在の社会がよい訳でもないので、この事を批判しているのではない。ただ、その中で働く教師は変人・奇人の類に映った、外界では通用しないことがここでは正論としてまかり通っている。独善的な考えが支配しているこの社会で、子供たちが教育というものを受け成長していくのかと思うと心配になった。
ダム管理所という職場が、どんな所で、どんな事をやっているのか、その結果どうなるのかということが明るく描かれている。しかし、その職場が実は、一般の人にはほとんど御目にかかれない閉ざされた社会であるということが、この小説の大きな特徴であると感じた。
ダムという途轍もなく大きな建造物を背負っている人々の責任感というか、むしろダムがのしかかってきて潰されそうになる男達が、ダムを放流することで、その圧力を和らげる、精神的にも逃避する様を時間単位で表現しているのが、第三章放流。
ダムを守ることが使命であり、ダムが決壊した場合下流の町も助からない、やむを得ない処置であり、手順も法令にのっとって違法はない。都宮はその様に主張する。川原でキャンプしていた数十人の人がいた事も把握していた、警告も発したが彼らは無視した、その時既に死に神という悪魔が大きく両手を広げ、キャンパー達をその胸元に引き寄せていたと大田も考えている。「とにかく、やることやったで、連中のことは警察や消防に任そうや。我々はダムと下流の町ィ守らんといけんでな」。閉ざされた社会の中で働く男たちの、その中での正論。
フィクションであるなら、キャンパーに落ち度があっても命がけで救って欲しかった。キャンパー達は自分の身勝手な行動が、いかに多くの人の命を危険にさらしているか反省の涙を流すという方向は無かったか。