今年の太宰賞は開始から数えて二十五回目、応募作品の数も一二四九作と、多数を記録した。事情があり小川洋子委員が欠席したものの新委員に荒川洋治、三浦しをんの両氏を迎え、面目を一新しての初選考である。最終選考に残ったのは四作。私の手応えは、まずまず、だった。
小峯淳「大学半年生」は賢げで早熟な高校三年生月島信夫くんを主人公とする家族の物語。複雑な家庭環境のもと、信夫くんが少し幼い高校の同級生を下に見つつ、飛び級式に、大学の初級のゼミにも時には顔を出し、一方週三回、塾教師をやる。そうしたなか、知り合うやや年上の友人、先生などとの交遊が描かれる。その細部の手応え——池に釣り糸を垂れていると時々浮きがぴくり、ぴくり、と動くような——にこの作品の見所があるが、いかんせん、何かが足りない。最終選考まで残る新人賞の応募作に圧倒的に見られる新豚インフル、「何かが足りない」病である。
それについては、後に述べるとして、この作品でそう感じられる理由を少しだけあげると、主人公の信夫くんが、またお姉さんの琴子さんが、どうも自分の家族は素敵な家族だと思っているらしい。そのことの「素敵でなさ」に気づいていない。この設定からすぐに思い浮かぶ江國香織さんの小説と比べると、人生に対する悪意が足りない分、善意も足りず(これは逆かもしれない)、少しいい気な小説かな、という感想が残る。
杣ちひろ「ヘラクレイトスの水」は大麻の売人をしている二十代の女性来栖の話。秘密の売買の相手とのやりとりから一つの物語の糸がするする野放図に延びていく。特に後半以降の展開に意外性とストーリーテリングの妙がある。けれども何か一人の個人の物語を読んだという感じがしない。家族、学校の仲間、クラブの仲間、売人仲間、とそれぞれに異なる交遊圏から何人かの登場人物が現れるが、物語の主軸以外で、相互間に交流はない。寄せ集めの感じである。
ここにも露わな「何かが足りない」病とは、言ってみれば小説が一枚の田んぼだとして、そこに、圧倒的に、張られるべき水が足りない、ということである。水さえ足りていれば魚もゆったりと泳ぐし、水草もゆらりゆらりと揺れるだろうに、この小説には、一番人為的にはどうすることもできない「何か」、魚を入れる水槽でいう、水が足りない。そのため、魚、登場人物が多すぎる、水草、ディテールもどこかうるさい、という印象になる。人は何になぜ、心を動かされるのだろうか。書き手にはそこを考えてもらいたいと思う。
これに対し、山本眞裕「ひょうたんのイヲ」は一九七二年の水俣での話。私はこの小説の肌理に勁いものを感じた。最近まで父は漁師だったが、水俣病のために、甘夏ミカン栽培に転じた。「じいちゃん」は寝込んでおり、「父ちゃん」も苦しい。「母ちゃん」の身体が心配だというさなか、姉のタエ子も病気に倒れる。さらには、生まれたときから水俣病にやられている妹の静子。生活も苦しい。しかし、その一方で、主人公は何をしているかというと、騒いでいる。中学校で新設のバレーボール部の練習にあけくれ、合宿に参加、仲間と葛藤し、淡い恋心を抱き、秋の大会をめざしている。文章もいいが、何がよいかといって、「何が起ころうと」どこまでも「それ」を明るく書くというのが、書き手のやろうとしていることだと感じられる、そこがよい。私はこの小説を愉快に受け取った。
だから、終盤、大阪から長身の双子稲村兄弟が越してくる、この二人も水俣病だというあたりからイヤな予感はしたものの、最後にいたり、「何が起ころうと」「それを明るく書く」の「明るく」が消える。それにがっかりした。西原理恵子なら最後まで「明るい」だろうに。書き手はサイダーを瓶につめた。しっかりと内圧を瓶に閉じこめ栓をする。その最後の栓がない。読み終わった後、何を読んだんだっけ。わからなくなる。「気」が抜けていく。それが残念だった。
ちょうどこの順に読んで、最後が柄澤昌幸「だむかん」だった。ここで選考委員は救われた気がした。この小説は、いま風の理屈っぽい「生存者」の述懐からはじまる。なんだか面倒くさいことを言っているなと暗い気持ちになりかかったが、これが次の章からがらっと変わる。一転、ダムを支える「どうしようもない奴ら」の話になるのだ。豪雨でダムが放流した。下流の中州でキャンプ中の二十数名が遭難した、というのがこの小説の大きな枠組みである。そして、右の生存者の語りからなる第一章の後、けっして手抜きはないのだが、ダムのように満々と湛えられた圧倒的な「無為」に押しつぶされるダム管理所の日々が、やはり半分壊れているのかどうなのかわからない中途半端な視点人物都宮の位置から「だらだらと」書きつがれる。「惨事が起こった。しかし過失はない。」小説はそんなことは言っていないのだが、評するとなると、そこがポイントである、と書くことになる。
過失はなかった。では何があったか。無為があった、と。
黒部ダムを思わせる巨大なダム。地質的なバランスをとるため、分厚いコンクリート層の一部に巨大な空洞が穿たれている。数十年に一度という豪雨の雨量が危険水位を超えるまでになり、その空洞が動くのか、急にダムから音がしてくる。ダムの圧倒的な存在感。それがこの小説の一つの核である。そのもとで、人はいずれ虫けらのような些少な存在なのだが、その生態を、書き手自ら虫けらになって書いている。そこがよい。普通なら伏線になるようなところをこの書き手は放置する。それがただの鈍感のせいなのか、そこに異質な資質を見るべきなのか、選考委員の意見は分かれ、結構明瞭な意見の不一致が生じた。しかし普段は堅固な、この賞選考の場のダムに罅を入らせるなど、この作に力があればこその快事であろう。私は、この小説の書き手の「つもり」がよくわからない。そこに不透明なものを感じ、この小説にとらえられた。経歴としては作者に最も近い高卒の藤谷が、この豪雨の分刻みの放流作業のさなか、一貫して漫画週刊誌を手放さない。読んでいる。下界での惨事の翌朝、管理所の裏で不在をきめこんでいた因幡が帰ってきて何事もなかったかのようにゴルフのクラブを振っている。書き手は何も言わない。それなのに、冒頭では生存者に語らせている。異質な書き手が異質な作品を手にやってきた、と私は一場の夢を見る気になった。「何かある」。これも病いのうち、と思い、これを推した。