太宰治賞
第26回

2010/08/24

荒川洋治  暗示の道
荒川洋治 (現代詩作家)

 最終候補作は、古田莉都「降着円盤」、尾賀京作「さよなら、お助けマン」、泊兆潮「骨捨て」、今村夏子「あたらしい娘」の四編。感想を記しておきたい。
 前の二編は、四〇〇字の原稿用紙で三〇〇枚近くあり、後ろの二編は一二〇枚から一五〇枚前後。この四編のなかから、受賞作を選ぶことになる。
 今回は、作品の長さ短さではなく、「長短」がかなりはっきりと感じとれた。
「降着円盤」は、星を見る人たちの群像。共通するのは、都市に暮らすこと、「わたし」とつながりがあることくらい。登場人物の関係も、会話、通信も、さほど意味のあるものとは思えない。世界は「わたし」の思うままに描写され、あるいは無視される。その点迷いはないが、書いている「わたし」はともかく、読む側にはかなり退屈な世界がひろがる。こちらが見たいのは作者の意識ではなく、一般的な意識である。そこから作品と読者の関係もはじまる。でも全体にみられる表面的な、人間の関係や接触は現代のものでもあるので、それをなぞっているのだとしたら、その方向で、「わたし」たちの現象がうつしだされるかもしれず、一概にこのような作品を無意味なものというわけにはいかなくなる。というわけで、作品から離れ、背景だけを思いつづけるという結果になった。作者は書くことについてこれまで考えなかったことを考えるべき時期かもしれない。
「さよなら、お助けマン」は、いい意味で娯楽性の高い作品だった。かなり多数の人物をからませながら、彼らに共通の友人と、その友人の支配をうけたものとの、関わりに迫る。人物の配置と構成は、とてもみごとなものだが、引用される翔子の手紙の内容が、凡庸で、平板である。数々の場面、読む人への「はたらきかけ」がもっとも期待されるところで、それがないように思われた。突然美空ひばりをうたいだすおばさんの場面などはとても愉快で印象的だが、全体には、同級生の世界を攪乱する要素がとぼしい。登場する人たちの、人と関わりをもとうとする情熱はいまは失われたものだけに、一種の郷愁のようなものを感じさせる。またその人のなかで、自分はどのような位置を占めるのかという点は、生きているかぎり興味をもちつづけるものである。その意味では、この作品が内部から掲げるものがひとつふたつ見えてくるが、でもそれはかたちをもてないまま、終始したように思う。
「骨捨て」は、設定も展開も見通しのよいもので、読みやすかった。主人公の感情の流れも、節目をしっかりと見せてくれるので、平地を歩くような感じで、負担がかからない。だがそれにしてもこの作品は、書き方も内容も、古風だと思った。グロテスクな、おもしろい場面がいくつかあるが、それさえも、時代がひとつかふたつ前の、世界の景物だと感じた。いわば「終わった」ものを見ているための読みやすさかもしれないのだ。古さから離れるためには、自分の古さを見つめるしかない。とにかく、湿った感じがする。
 以上の三編は、そこに書かれている通りのものを読むというひとときをもたらした。それ以上のものを期待すると、かたちをなくしてしまうようなところがある。
「あたらしい娘」はどうか。少しだけ別の世界になっていた。暗示的な文章から入るのだ。竹馬に乗って近づく幼女、さきちゃんの姿。
「気づいているとしても、さきちゃんの両手は竹馬を握りしめているので振り返すことができない。着実にこちらに向かって前進しているはずなのだが、まるでその場で足踏みをしているかのようにのろい。」
 竹馬の歩行は「あたらしい娘」という作品の歩行だ。その歩調は、登場する人たちの歩調でもあるだろう。
 この文章と、似たかたちのものが、最後にも登場する。姿をみせる。
「祖母の家の庭先で、夏の初めに竹馬に乗ってやってくる友達を待っているとき、前進しているようには見えない、ただ小刻みに揺れているだけの影を見つめているときに」……。
 この二つの文章が、作品の世界をつつむようにして置かれる。「あたらしい娘」は、何かをつつむようにして書かれた、静かな一枚の紙のような作品である。そこに新鮮な厚みが感じられる。この二つの文章の間に、さまざまな心のなかのできごとがあり、家族の動きがあるのだが、ぼくはまたそれとは別に、この文章のことを、忘れないという気持ちで読んでいく。実は、この冒頭の文は、作品のできごととさほど強く結びつくものではない。作品に対し、希薄な関係にある。
その後につづく「1」の冒頭は、次の一文。
「十五歳で引っ越しをする日まで、あみ子は田中家の長女として育てられた。父と母、それから不良の兄がひとりいた。」
 この、書き出しにふさわしい文章を、作品の冒頭に置かなかったのは、なぜか。もちろんそれは作者の流儀である。作品に対する距離のようなものを書きながら意識するという、この作者のもとから生まれたものだと思う。「あたらしい娘」は、ときおり前後の時間や、ものの区別が見えなくなるほどきめこまかくつくられているが、だからといって、作者は作品のなかに没入しているのではない。むしろ没入を警戒し、わずかに外側に立って書いているふしがある。それがかえって、作品のなかの人々の心理をものがたることになる。ひとつの作品が、読者に、暗示的にはたらきつづける。その静かな交流のひとときを「あたらしい娘」は与えてくれる。
 ぼくは最初「あたらしい娘」を読んだとき、なにかにとても心が動いた記憶があるのだが、しばらくするとなかみをすっかり忘れた。でももう一度この作品のページを開いてみると、ちがっていた。空気になじむほどに、そこからいろんなものが見え出してくる。そういう作品なのかもしれないと思った。紙のようにうすいところも、人の心にかかわるところはすべて、こまやかに書かれていた。すぐれた心理小説であるといえる。  
 別の観点からも、味わうことができるだろうが、いずれにしても受賞作にふさわしい空気と、独自の歩調をそなえたものだ。そしてどこかからまた、作者のなかに、新しい小説がやってくる。近づいてくる。そんな期待が感じられた。
「あたらしい娘」という題について、どうなのかという議論もあった。ひかえめなはずの作者が、こと題名になると、一種の気迫をふきこむものなのか。それがこの題を呼び込んだのかもしれない。ほんとうのところは作者でなくてはわからないが、「あたらしい娘」ということばもまた、うすい紙のようなものにつつまれているのだ。

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