全候補作に登場する数多くの人物たちの中で、最も強い存在感を放っていたのが、「あたらしい娘」のあみ子だった。最後のページをめくり終えてもなお、あみ子の感触だけは胸に深く染み込んだまま、いつまでも薄れる気配を見せなかった。彼女は今でも私の眼前で、両足をぐいと踏ん張りながら、片手にトランシーバーを持ち、抜けた前歯の奥に潜む空洞をちらつかせている。彼女の姿形、仕草、声の響き、そして体臭までもがありありと浮かび上がってくる。これほどの勢いで読み手を物語の世界へと引きずり込んだ登場人物は、あみ子一人だった。彼女と出会った時点ですぐさま、「あたらしい娘」を推そうと決心した。
冒頭、ただスミレを採りに行くだけのシーンでありながら、そこにはどこか素通りできない独特な空気が流れている。祖母が丸めた緑色のだんご、竹馬に乗ってやって来るさきちゃん、男の子にパンチをされてどこかに行ってしまった前歯。そういうものたちが不穏な予感を運んでくる。ふと気づくと、その予感にからめ取られ、不穏の源をどうしても見届けたいという気持に陥っている。
ここに描かれるのは、最初から最後まであみ子の目に映った世界であり、それ以外の余分なもの、例えば周囲の大人たちの理屈や思惑は潔く排除されている。なぜ母親の心が壊れてゆくのか、なぜ兄が不良になるのか、賢明なはずの父親がなぜ適切な手段を講じないのか。理由は一切説明されない。あみ子の外の世界でいくら劇的な動きがあろうとも、彼女の視界に映し出されない限りそれらは存在しないのと同じ扱いを受ける。あみ子と世界の間に横たわる距離を、書き手は決して侵そうとはしない。
私が最も好感を持ったのは、あみ子がその距離を特殊なものとしてとらえていない点だった。あみ子は決して、クラスメイトとも家族とも上手く馴染めない自分を哀れんだり、自分は普通とは違う、という意識をこちらに押し付けたりしない。つまり書き手は彼女の自意識ではなく、彼女が何をしたかを描写することに徹した。「好きじゃ、好きじゃ、好きじゃすきじゃす」と叫びながら、保健室でのり君に殴られた時も、あみ子は絶望するでも泣き崩れるのでもなく、ただ一息ついただけだった。何も押し付けられないからこそ、読み手は彼女が抱える暗闇の一点を、心ゆくまでじっと見つめることができる。
もう一つ付け加えておきたいのは、方言の巧みさだった。耳で聞く方言のニュアンスを書き言葉で伝えるのは難しい。しかし今村さんはやすやすとそれをやりきっていた。岡山出身の私には大変耳に心地よい文章だった。
さて、受賞作が決まり、取材記者の方々に作品について説明をする場があったのだが、そこで奇妙な感覚を味わった。「あたらしい娘」の良さを分かってもらおうと、一生懸命喋れば喋るほど、なぜか作品の一番大事なものから遠ざかってゆくのだった。歯がゆい思いで四苦八苦している私に、三浦しをんさんが助け舟を出して下さった。
「あらすじを説明しても、そこからこぼれ落ちてゆくものの方が多い小説なんです」
なるほど、その通りだった。あみ子の魅力は元々、あらすじなどという安易な尺度では測れないスケールを持っている。
読み手から言葉を奪う小説。これこそが「あたらしい娘」が受賞作に相応しい理由であると思う。
ストーリーを語らせないのが「あたらしい娘」であるとすれば、「さよなら、お助けマン」はストーリーの綿密さによって読ませる小説、と言えるだろうか。エリート夫婦の崩壊、レイプ未遂事件、自殺目的の北海道旅行、交通事故、女優の連載エッセイ、ホテルに忘れられたノート……。こうしたもろもろを破綻なく描きつつ、最終的に元也の死へと集約させてゆくためには、かなりの力量が必要とされるだろう。長い作品ではあるが、ストーリーの持つ推進力によって、最後まで飽きずにページをめくることができた。
いくつか忘れがたいエピソードもあった。例えば、山の中のプレハブで元也が中村勇樹にギターを習う場面。おばちゃんに見つかり、美空ひばりをリクエストされて中村が『川の流れのように』を弾く。それに合わせておばちゃんは妙なハミングをする。ただそれだけのことなのだが、ここに現れる元也には確かに体温があり、人としての手触りが感じられた。
しかしそう思える瞬間は少なかった。登場人物たちの多くはストーリーを動かしてゆくための駒にしかすぎず、物語の内面から止めようもなくあふれ出てくるような存在感を持つところまでは至っていなかった。綿密に練り上げられたストーリーを乱さないよう、自ら枠の中に納まってしまっていた。
書き手のコントロールを打ち破る不意打ちの何かが、この小説には必要な気がする。
『降着円盤』の主人公は両親に十分愛されず、好きな人からも振り向いてもらえず、自分はほとんど存在していないに等しいと感じている。どうにかして他人から必要とされたいと願い、空回りしながらもけなげに頑張っている。
本当ならこの主人公を応援したかった。思わず彼女に寄り添いたくなるような小説であってほしかった。しかし残念ながら、そうはならなかった。
彼女は未熟で惨めな自分を客観的に見る視点を持っておらず、一生懸命どたばたやっている自分にただ酔っているだけだった。書き手が主人公とどれだけ適切な距離を保てるか、それは小説を書いている限りずっと考え続けなければならない問題だと思う。
今までいろいろな候補作を読んできて不思議に思うのだが、長すぎると感じる作品はいくつもあるのに、短すぎると感じるものには出会ったことがない。自分が思うよりも小説が長くなろうとする場合は、注意が必要なのかもしれない。
今回の四作品の中で最も短いのが「骨捨て」だった。一人の老人の人生を振り返る形式でありながら、無闇に膨張せず、全体的に引き締まった印象を受けた。
忘れがたいのは穴子の出てくる場面だ。若き日の朝一がすずらんと夜釣りに出掛けると、なぜか穴子ばかりがひっきりなしに掛かる。結局、その夜釣りが凶事の予兆となる。
ただどうしても私には、事故によって失われた右腕が〝穢れた過去の象徴〟と言われるほどの重みを持って伝わってこなかった。朝一がここまで右腕にこだわるとするなら、もっと救いようのない狂気や醜さがそこに宿っているべきだろう。ところが終盤近くになって見え隠れするのは、〝生きるとは、死に向かうことだったのだ〟〝生きるとは、戸惑いの連続〟などという分かりやすいまとめだった。別に小説をまとめる必要などないのだ。所詮、そんなことは到底無理なのだから。