前回の一委員欠席を受け(私)、今回は選考委員の顔ぶれが変わって以来、全員出席のもとで行われる初の選考となった。しかし作品のほうはもう一つ、物足りない。受賞したのは、由井鮎彦さんの『会えなかった人』で、これは主に私が推した。しかし満腔の賛意をもって推輓できたのではない。
他の作品から。
佐々木俊輔さんの『ゆめのみらい』は、地震の被災地で読んだせいか、一度読んだだけでは、内容が頭に入らなかった。全て薄っぺらい紙でできている世界を、そのまま示されているよう。横浜の臨海造成地区を舞台に、三十代の妻である女性の孤独を描く作品だが、主人公のアキと夫ユウジの関係、アキと暗号手紙友達ホンジョウの関係、そこに介入する副主人公格のヤマダの物語など、数多い登場人物の関係、物語のいずれもが、像を結ばない。少し面白いのは僅かに地の文に引かれるユウジの科白くらいか。選考の直前、念のために再読を試みたが、やはり印象は変わらず。ヤマダについて、数十年前に推理小説を読んだ。そこに暗号が出てきた。それである日マンションの掲示板に出ている暗号がその場で即座に解読できた、という場面が出てくる。こんなことってあるだろうか。粗雑の度合いが、どのくらいの「レベル」か、4か、7か。作者には、読む身になって、考えてもらいたいと思う。
坂本四郎さんの『ブギー』は、一九八五年生まれの若者の恋愛譚。年上の浩子さんの愛をつなぎ止めようと、主人公が弁護士になるべく司法試験の勉強に邁進し、一方、廃部寸前のラグビー部存続に精力を傾ける。文章も悪くない。司法試験の勉強、ラグビー競技の細部なども、素人の目には違和感なく読め、読んでいる間、主人公の気分をそれなりに楽しむことができる。しかし、私の目にはどうしてもこの話の全体が、村上春樹氏のベストセラー小説『ノルウェイの森』のそれとダブって見えた。両者の違いは、浩子さんがまったく魅力のない、小心で自分勝手な女性だということで、この作品の勝機は、この一点を突破して別の時空へと進むことだったと思われる。この女性がいかに薄っぺらいか、それなのに、そういう女性がなぜ恋しいか。そこを書ければ、登場人物の軽薄、小心、打算が、違う色合いの元に浮かぶ。それが、小説の力なのだと教えられたと思う。どこがこの小説のポイントであるかに、最後近くまで、書き手は気づかなかったのかとも思われる節があるが、それは、この作品が前記先行作を余りになぞりすぎていることと、無関係ではないだろう。おい、目を覚ませ、もう真昼だ。という声がどこかで聞こえている。
小山正さんの『それぞれのマラソン』に私は好感をもった。これは誰しも好感を持たざるをえない作品である。しかし、高校の陸上部で仲間だった四人が、その後、それぞれの人生の転変をへて、八年後再会。みんなして沖縄の那覇マラソンに参加するという話は、その枠組みの提示される冒頭数頁目にして、先が読めてしまうという欠点をもつ。また私は気づかなかったが、なぜ走者の一人である話者の一人が、他の仲間の走行について書けるのか、というナラティブの尤もな難点に関する他の委員の指摘にも、首肯させられた。香山が中途で歩き出すときの「昔のように走れないのではない。昔のように走らなくてもいいのだ」など、行文は、それなりの叡智を含み、その叡智は自前のものであると感じられる。しかし、最終的にこれを推さなかったのは、小説にはもう少し、作者一人の秘密の糸のような声が一本、まじっているはずだろう、という気がしたからである。自分はこう、とでもいうか。人間とはこういうものだ、という教養書に出てくる叡智とは異種の声。それがないのは、最初からこういうもの(人に勇気を与えるよい話)を書こうという作者の姿勢がここに貫かれているからで、小説執筆の過程で作者はこの異質の声に出会えなかったのだとも言える。感動的な歌はえてして、音楽的に、浅かったりする。水が易々と流れていく川があり、うなされもせずにすやすやと眠る子どもがいる。私はそこを立ち去るのだが、その時、後ろ髪をひくものが、足りないのだった。
さて、由井鮎彦さんの『会えなかった人』は、読んですぐ、躓く。というのも冒頭近く、「旗笙子は今夜、真崎兼作が……」とあり、この小説が旗を視点人物とする三人称の物語かと思うと、その二頁後に、回想場面なのか、「わたしは……」とあり、ついで、その場面での「わたし」が再び「旗」で受けられる。日本語で小説を読む誰もが、ここでは躓かざるをえないはずだが、なぜこんな書き方なのか、と思いつつも、読み手の私は読んでいく。なぜなら、この書き方はおかしいと思いながらも、私は、この「わたし」と「旗」が同一人物だということを、わかっているからである。しかし考えてみるとこれは不思議なことだ。なぜ「わかる」のか。地の文が視点人物から描かれ、しかも登場人物が一人称(「私」)ならぬ三人称の固有名ないし「彼」で受けられるという、〝疑似私小説〟―語り手が「彼」であるだけで、内実は「私小説」であるようなものとして書かれ、読まれている小説のことをこう呼んでおこう―なるものの伝統が、私たちのもとにあるからである。視点人物と話者のこの連動は、小説一般に通有のものだろうが、読み進めていくと、どうも書き手は、日本語のそのような文学的、小説的〝慣行〟のすきまに指を差し入れている、という気がしてくる。それくらい、ナラティブについて、繊細な意識が働いている、と私は感じた。
作中、音は描けないが宙に浮かぶものは描けるという話が出てくる。それには、実体そのものから「影を離」して描けばよいのだ、と。それを作中で、話者は、数回思い出している。つまりは、旗と真崎の一対の男女の物語が、そのあわいに園井さゆりと鏑木隼人という色の薄い、また濃すぎる二者の代替存在物=影を介在させて、進んでいく。そんな物語の気配を漂わせて、話は展開するのだが、その緊張をとぎらせず、読者を先に促していく文章力に、私は作者の文学的な意識の高さと慎重な身構えらしきものを認めた、ということになるかと思う。
幻想というものは、一般には色濃い光のもとに了解され、谷崎の『陰翳礼讃』なども西洋で好まれる日本的陰翳として名高いが、ここにあるのはそれらとは異質な幻想である。一種じめっとした曖昧な日本語小説の慣習を駆使して、この作品に立ち上ってくる日の光の濃淡は、選考の場で他の委員も指摘したように、非日常ならぬ日常の幻想―普段着で、家の部屋にたたずんでいると、庭が暗くなってくる、それだけ―といった異質の佇まいを漂わせる。それでいて、ところどころ、ブライアン・デ・パルマの『殺しのドレス』その他の作品を思い浮かべさせられた、といえば、この作品の奇妙なテイストを少しは伝えたことになるだろうか。辻原登氏のような作者に育てば、とも、私は思った。
ただ、読んでいると、よおく考えると秘密が解けるような「わけのわからなさ」、枠組の中にある百花繚乱などは物足りないのだ、その先に行きたいのだ、というような不遜、不敵な呟きも、聞こえてくる。
小説というものは、そういうものか。それは、作者の空転した気負い、別に言えば慢心の現れでもあるのではないか。小説はもっと、単純なものではないか。作品の全体は、よくわからず。そのわからなさが、明確に像を結ぶというのでもない。そこが弱いと、私は思う。受賞に値するものとしてはこれのみと思い、推したが、願わくば、作者が、次作で、その文学的力量を別の形で示し、驚かせてくれんことを。