最終候補作は、由井鮎彦『会えなかった人』、小山正『それぞれのマラソン』、佐々木俊輔『ゆめのみらい』、坂本四郎『ブギー』の四編である。
以下、四編の感想を記しておきたい。
小山正『それぞれのマラソン』はひとことでいうと、とても健康的な小説だと思う。念願のフル・マラソンへの挑戦と、人生のかかわりを描く。経過時間の記録などこまかく記され、マラソンの走行のようすが「中継」でも見るように伝わるが、文学的な密度、屈折度がよわい。善意にみたされてはいるものの、どうみても単純な話に見えて、感銘にとぼしい。
いまは人が離れ離れになった。そうではない人の集まりを思い描き、その取り決めによって、ひとつのことに向かう「群像」を主題とすることも、これからの生き方ではあるので、評価する向きもあるかもしれないが、ぼくの印象には残らなかった。健康的なものを通して、人生の成就をはかる感覚をもつことは決してわるいことではないので、むしろその資質を極限まで伸ばしてみてほしい。
佐々木俊輔『ゆめのみらい』は、四編のなかでは、最初に読んだ。目が慣れていないので、かえって細かく、ていねいに読んだはずなのに、最終的には、どこで、いつ、何を読んだのかを思い出せないような気分になった。一種の都市論のようなものが展開されているようでもあり、また、なにもはっきりと書きたいことがないので、都市論の枠組みを借りて語る必要も、心理的に生まれるのかもしれない。
「人と適切な距離を保ちながら街の中に自由な線を描くことができる」。そんなスケートボーダーなど、都市論的なものをくゆらせる人物の配置などはおもしろい。ひとつの街に住みつづけることでみえてくるものが、いくぶん重層的に語られるという世界なのだろうか。それとも、小説らしい横道の集積そのものが終着点なのだろうか。焦点がはっきり見えてこないまま、文章がつづられている。
いずれにしても内向的な作風だが、もしかしたら、こうした内向的な世界はすでに多くの小説が通り抜けたものではなかろうか。格別なものを感じとれなかった理由はそこにあるのかもしれない。この作品だけのことではないが、書かれている現在が、すでに終わっているものかもしれないこと。それは「現在」の書き手が意識しておきたいことだ。
坂本四郎『ブギー』。長い作品だが、ぼくにはこれがいちばんおもしろかった。この作品が受賞しても、決しておかしくはないと思ったが、話そのものが子供っぽく、こういうものをいいと言ったら、ぼく自身も同類のように見られてしまう怖れが多少はある。それにもしかしたら同類かもしれないので、控え目になるのだ。
まず、否定的な点から見ると、これがいっぱいある。デュマ・フィス『椿姫』からドストエフスキー、カルヴィーノ、ハントケの作品まで、ともかくこの主人公の青年は、小さいときからとても多くの海外の作品を読んでいて、日常の会話にも顔を出すのだ。これだけ読んでいれば、人生の知恵も生まれ、人の気持ちも見えて、あれこれを切り抜けられるように思うのだが、女性の気持ち、あるいは女性との関係を読むことにおいても、読書経験はまったく役立っていない。なんのためにこれまでこれだけの量を読んできたのか。その意味がないという状態なのだ。友だちは主人公の読書に対しどう思っているかということについて、主人公はほとんど意識していない。発言もない。だからそこから芸術と人生の対立というようなテーマも発生しない。ただただひとりでスイスイ読んでいるだけなのである。そこがまずおかしいが、そんな点ひとつ見ても、この青年から学ぶところはあまりない。少し気配としてあったかにみえたものも、読むほどに、めべりしていく。
こうした子供の時間には、まったくなにもないのかというと、そうでもない。内向的に、屈折して書かれたものより、ある面では強いところもあるのだ。これを読む人が、この子供の時間のなかに、いくつかのことを「補強」し、そのことによって子供の時間が「強化」されていくのだ。そして、さしたる魅力もない女性にあやつられ、ふられてしまい、それでもまだつながりをつづけようとする青年の姿を通して、詩や小説を書きつづける多くの人たちの、本人には感じとれないおかしさ、あやしさが引きずりだされるように、ぼくなどは思い、奇妙な共感の世界に入るのである。スイスイと。
ストレートで、すなおで、そのために青年は失敗するが、これを読んだ人のなかには、このような青年の状態を、部分的ではあれ、いまももっている人、捨て切れていない人がいるはずだ。この青年のエリート意識は最後の自己発見も含めて持続しているとみることも可能だが、内向する作品の多いなか、この作者の「明るい才能」に期待したい。
由井鮎彦『会えなかった人』。これは最後に読んだのだが、これになるだろうという予感がした。でもとても問題の多い一編で、ほんとうのところはいまもわからない。受賞したという事実だけがわかる。そんな作品なのである。
まず二人の人物が出てくるが、不透明。それぞれどんな仕事をもち、どういう暮らしをしているのか。二人の関係は、どうなのか。その動作は、誰がしているのか。つまり人称、行動、関係など、さらには「花火」(花火であるとは書かず、それをにおわすいくつかの表現で示す)などの事物についても、明確なことばにしないまま進む。いわば「沈黙の散文」で進むのだ。少しずつわかる、という意識的なシステムでもない。ぼんやりと、わがままに示していく。そこに不思議な世界がつくられていくという運びである。沈黙の流儀は、伏せられたままなので、憶測を呼ぶ。その空気は最後まで保たれる。そこが見どころとなる。そのようにみるしかない。
これは散文の書き方ではなく、むしろ短歌など詩歌の書き方に近いものだと感じた。なにを書くのか、どうなるのか、自分でもわからずに「歌いだし」、そのうちにまわりの風景が、詠む人にも、それをうけとる人にも見えてくるというもので、詩歌の常套である。書き方という点で東洋風のもので、文化に対峙する雰囲気もある。後半の出火のようすなど、ひとつの文化が爛熟していくような気配があるのだ。ここに新しい散文の世界があるとはいいきれないものの、あまりものをいわない小説の存在感があることはたしかだ。そこに感興を見ることは可能だ。でもこれももしかしたら子供の時間の一種なのかもしれない。あるいはそれとは異なるものかもしれない。
文学賞は総じて、これから書きつづける力をもつ人のためのものである。この「沈黙の散文」が次の世界に進むためには、もう少しことばを出し、話をしたほうがいいかもしれない。