最終候補の四作品とも、いい意味で「自分の書きたいものを書こう」という気概に満ちていた。
『ゆめのみらい』は、全編に漂う街の不穏なムードがいい。しかし、登場人物の掘り下げがややたりないのではないか。たとえば、主人公のアキが自分勝手で流されるままの女にしか思えず、どうにも感情移入しにくい。感情移入は小説を読むにあたって絶対に必要なものではないが、アキの孤独や閉塞感を描こうとしているのである以上、「こういうことってあるよなあ」と多少なりとも読者の共感を喚起する書きかたをしたほうが、作品の主題がより活きるだろう。現状だとどうしても、「そんなにいまの生活がいやなら、夫と離婚してマンションを出ていけばいいだろ」と思えてしまう。アキのアクション(心と体の動き)があまりにも薄く、「周囲の人間と積極的にかかわらず、自己の内部で完結していたら、そりゃあ幸せになれるはずないよな」といまいち応援できないのだ。ヤマダやホンジョーのエピソードがいずれも尻すぼみなのも、アキおよび作品全体のダイナミズムがやや希薄に感じられる一因だろう。最後の一文で「孤独」という単語を使ってしまうところに、本作の内包する諸々の弱点が集約されている。孤独にもさまざまなレベルや種類があり、それを登場人物に寄り添い、物語の形で描写していくのが小説ではないかと思うが、本作では「孤独」という文字をなぞって書き順を説明されたような感がある。本来ならば個別性が高く共有できない孤独(だからこそ孤独なのだ)を、たとえ一瞬の錯覚であろうと、読書するあいだは登場人物と共有できたかのように感じさせる。そういう物語を紡ぐべく、お互いに精進していきましょう。
『ブギー』は、「主人公が大学時代にずっと好きだった女と、どのように交流し、いかにしてふられたか」という話だと要約できるだろう。「他人の恋バナなどどうでもいい」と思うほうなのだが、ぐいぐい読んでしまった。しかし、「ちょっといい男風」「ちょっといい女風」のすかした会話はなんとかならないのかと、噴飯すること無数回だった。いや、恋をしているときはだれしも「ちょっといい男風」「ちょっといい女風」に気取ってしまうものだろうから、百歩譲ってそこは目をつぶるとしても、主人公の偏差値至上主義や女性とのセックスを「穢れ」と受け取る旧弊な感性は、いったいなんなのだろう。真実の恋を知ることによって、そんな主人公の考えや感性にどう変化が生じたのかをこそ、読みたかった気がする。本作のラストで、主人公は重要な悟りについに到達する。「よくぞ気づいた!」と読者として喝采を贈ったが、しかし大事なのは、その悟りを経て、主人公がどう変わったのか、ということではないか。作者はユーモアの感覚を持ちあわせていると思えるので、登場人物との距離をもう少し取り、諧謔や余裕を持った語り口にすれば、作品世界がもっと豊かになるはずだ。
『それぞれのマラソン』は読後感が大変よく、登場人物もみな魅力的で、作品としてうまくまとまっていた。ただ、まとめすぎ、という感も否めない。それはラストの主人公の「答え」にも、タイトルにも表れている。もっと枚数が長ければ、またちがった印象や感慨ももたらされるはずだが、現状の枚数で長距離を題材にするのであれば、もう少し「開かれた」(まとめすぎない)作品づくりを心がけたほうがいいだろう。私は四作のなかでは本作を推したのだが、ほかの選考委員から「まとまっているが、もうちょっとひねりやあとに残るものが欲しい」という意見が出て、たしかに、それに対して強く反論する材料に欠けると感じるところがあり、最後までは推しきれなかった。本作を読んで、多くのひとが気になるだろう部分は、「どうして主人公の『僕』が、レース中のほかの登場人物の心情や行動を知っているのか」ということだと思う。レース後、落ち着いてから各人にインタビューしたのだと解釈できなくもないが、視点や人称に工夫の余地がある。しかし、作者に実力があるのはまちがいないので、今後もさまざまな題材に挑戦し、小説を書くことに取り組んでいっていただきたいと願う。作品を掌握しすぎようとせず、若干のノイズが混じることを恐れず表現するのが肝心だろう。ノイズこそが、作者自身にも制御できない、生きた登場人物から発される魂の声である。
『会えなかった人』は、なんともつかみどころのない不思議な作品だった。選考の場でも、「ああでもない、こうでもない」とさまざまに議論が交わされ、最後の望みの綱とばかりに加藤典洋さんの解釈にみなが耳を傾けたら、結論は「わからない」だったので、「ぎゃふん」であった。しかし、この「わからなさ」こそが本作の魅力であり、得体の知れぬエネルギーと不穏な蠢きの源であるのもたしかだ。ただそれにしても、冒頭の人称の混乱、時系列のわかりにくさは、読者に対して不親切すぎるのではないか(私は、作者の人称への無自覚が冒頭の混乱を招いたのだと思っている。なぜなら後半になるに従い、ふつうの三人称および一人称に落ち着いていくからだ)。本作は読み進めていくと、なかなかサスペンスがあり、幻想と現実が入り乱れるような奇妙な「あわい」を描いて独特の味わいが感じられるのだが、まずもって読み進めるのが最初は困難だ。現状のままで書籍として刊行されるとしたら、冒頭の部分でかなり読者を選ぶだろうし、そうなると本作の一番おもしろい後半部分は未読のまま本が放置されるという事態が出来するわけで、それは作品にとっても、お金を払って本を買う読者にとってももったいない。かといって、じゃあ冒頭の人称を整理すれば問題解決かというと、決してそうでもなく、すっきりさせてしまうと本作の持つ奇妙な語り口が薄れ、必然的に作品の持つエネルギーや蠢きも消えてしまう怖れがある。読み心地にも、作者の小説を書く技量にも、(いい意味でも悪い意味でも)袋小路にさまよいこむ感を覚えるのだが、書く技量に関して言えば、行き届いていないと思える部分も、もしかしたら自覚的な企みをもってのことなのかもしれず、より広く多くの読者の鑑賞に委ねるのもありかと考え、本作を受賞作とすることに同意した。
四作を拝読して感じたのは、「小説にとって、語り口(語りかた)はかなり重要である」ということだ。ストーリーが波瀾万丈で登場人物が魅力的で構成が緻密であっても、語りかたに作者の神経が行き届いていなければ凡庸な作品になってしまうし、平板でありがちなストーリーで共感しがたい登場人物で破綻した構成であっても、語りかたに工夫や躍動感があれば作品は途端に輝きを帯びはじめる。「あたりまえだろ」と思うかもしれないが、この「あたりまえ」をいざ実践するとなると非常に難しい。今回の四作はそれぞれにいい部分がたくさんあったが、個人的には、いずれも語りかたへの自覚がやや欠けていると感じた。作品にもっともふさわしい、作品を活かす語りかたを選ぶには、視点や人称や文章のテイストを熟考するのが第一だが、そのためにはある程度「読者」の存在を念頭に置く必要があるのではないか。作者はなぜ書くのかというと、自分以外のひとに伝えたいと願うからだろう。であるならば、最初の読者である作者本人は、「これで本当に他者に伝わるか」ということを、いつも頭の片隅に置きながら、作品を読み返しつつ書く姿勢を忘れてはならないと思う。小説は作者の自慢話でも、標語集でもない。登場人物が物語ろうとする声に耳を傾け、より多くのひとに伝わるように語り口(語りかた)を調整する作業。それが、小説を書く際に作者に求められる、もっとも大きな役割のひとつであると考える。