このたびは栄えある賞を頂き、嬉しく思います。それに携わり、関わってこられた皆様方にはお礼を申し上げます。
たとえば名詞について、なかでも普通名詞について考えます。
いわば、小説もすでに営々と、いく筋もの流れを生み出してきました。
実際、普通名詞にしても、そうした流れのなかでさまざまな波をかぶってきたはずで、そこへも変化は及んでいきます。
とはいえまた、確かに二進も三進もいかなくなったのだと思います。ときには並ではないことも起こります。
ある流れのなかで、それは消耗を余儀なくされ、ほとんど紙の上から消えてなくなるほどになりました。そしてまた、そのものは枯れ木のようにあたりにぽつんぽつんと辛うじてまばらに立つばかりで、せいぜい代名詞のみが繁殖していくだけの、けれども荒々しい見えない風の吹きまくっている、灰色世界を形作っていきました。
一方、もうひとつの流れのなかではあたかもそれに抗するかのように、そのものは氾濫し、憑かれたように増殖し、鏡に取り囲まれた世界のようにも乱反射し、そして果てしもなく空転していくことになりました。賑やかだけれども、音のない世界、華やかだけれども、冷んやりと醒めた空ろな世界、さながらそんな世界が生み出されてきたかのようです。
けれども、何かしらのものがこの先さらに眺めとして現れてくるのだとしたら、これらの消耗と空転という二本の隘路を抜けていった後でしかないように思えます。
一時期は副詞に好意を抱いたこともあるのですが、それはその先に仄見える動きある世界に憧れてもいたためでしょうか。
どこへ走り出しているのかわからない動詞がその上に頂き、乗せていくものとしたら、まずは名詞ということになるのでしょう。なかでも世界を多様に、多彩に広げていくものとしたら、普通名詞そのものということになるのでしょう。
この身としては普通名詞の微分化ともいうことに関心は赴いているといったようです。
由井鮎彦