今回、かなり票が割れ、選考会の途中、何度か「もしかすると受賞作を出せないのでは」という予感がよぎったのだが、こうして無事「うつぶし」を選出することができてほっとしている。
最終候補に残った四作ともに、各々個性的な魅力を備えていた。と同時に、小説を書く根源的な意味にまで関わってくる、瑕を抱えてもいた。どの魅力に可能性を認め、どの瑕を許すかの選択が選考委員一人一人異なり、そこを擦り合わせてゆくのはほとんど無理ではないかと思われた。しかし、議論を重ねてゆくうち、湖の底に沈んで絡み合っていた四作の中から、いつの間にか「うつぶし」が濁った水面を抜け出し、ゆっくりと浮上してきた。選考委員がすくい上げたというよりは、自力ではい上がってきたかのような印象だった。それはつまり、作品自身の持っている力の証明に他ならない。
議論の中でずっと私は、〝私〟が〝私”を書くことの難しさについて考えていた。語り手が自分自身について描写するのがこれほどまでに難しいのだとしたら、一体どうやって小説を書けばいいのだろうと、途方に暮れる気分だった。
「唾棄しめる」の小川は常に何かに腹を立てている。理由のないその苛立ちを、死ねッ、うるせぇよ馬鹿野郎、と無防備なほどに単純な言葉で吐き出してしまう。八方塞がりの状況に陥った自分を持て余し、語るべき言葉を放棄しているように見える。読者は始終、その不機嫌に付き合わされる。正直に言って、あまり愉快なことではない。
ところが駅のホームで祈りを捧げる老婆と出会った途端、小川はそれまで見せなかった存在感を発揮しはじめる。とにかく老婆が魅力的なのだ。図書館で裁縫をし、小学生に向かって校歌をうたう彼女が何者なのかは一切分からない。彼女が抱える〝私”の世界には小川も読者も踏み込めず、ただ世界のひずみに落ち込むようにして本棚の陰で針を動かしている、その背中を見つめるだけだ。にもかかわらず、死ねッ、うるせぇよ馬鹿野郎の一言でくくられてしまった小川の苛立ちよりもずっと深い陰影が、こちらに伝わってくる。
小川は三十九回、老婆を背負ってアパートまで送る。ある日、不動産屋から老婆が「死にましたーっ」と聞かされた時、自分が彼女を揺さぶりすぎたからではないか、という不安にさいなまれる。そして老婆の誕生日を克明に覚えている自分に気づく。
老婆の姿に反射する形で初めて、小川は体温を持った存在として読者の前に立ち現れてくる。〝生きてるに見合った実感触がない”と弱音を吐いている彼よりも、老婆を背負ってアパートまでの道を歩く彼の姿にこそ物語を見出せる。あるいは、喫茶店の窓を外してもらって帰るという突拍子もない行為にこそ、彼の真の狂気は隠れている。そのことに作者がもっと自覚的であってほしかった、と思う。
一方、最初から潔く〝私”を消し去ったのが「成長の儀式」だった。作者は登場人物たちの先頭に立ち、物語を最も詳しく把握する者として読者を導いている。作者にとっては主人公の彼も、物語を作り上げてゆくうえでの一つの積み木にすぎない。
問題なのはその積み木が、どこででも買える既製品にしか見えなかった点だ。南極大陸で人間と悪魔が一億二千万個体ずつに分かれて戦争をしている。戦場では二つの異なった次元が重なり合っている。この戦争は〝青い磁力を帯びたように美しく統一された価値観の中”で、〝正しさに満ちている”。こうした設定に、さほどの新鮮味は感じられなかった。部品は既製品でも構わない。しかしそれを組み立てた結果出現した世界には、小説の可能性を押し広げるほどのパワーが必要なのだ。
ただし、単にすらすら楽しく読める、というだけの作品には決して留まっていない。たとえ彼が世界を救ったとしても、世界は彼を救わない、というこの残酷な真理を、物語の中に絶妙に織り込んでゆく技量は本物だと確信している。
「ニカライチの小鳥」では、〝私”はエリとタカシに分裂している。二人を合わせた〝私”も登場してくる。書くべき相手との距離を測るための策だったのだろうか。けれどその工夫が有効に働いているとは思えない。一人の人間を分裂させても、物語が重層的に膨張している様子は感じられない。外の世界には書店でのアルバイトと堀北さんへの恋心があり、内の世界では哲学風の考察の繰り返しがある。私にはこれ以上の構造は見えてこなかった。
本作はラスト、エリが物語に向うところで終わる。ここで思わず私は「ずるい」と叫んでしまった。つまりこの小説は、物語を書かないで済ませているのだ。本当に書かれるべき何かを書かないための小説。もしそれが許されるなら、私だってそれを書きたい、と駄々をこねたくなってきた。
「うつぶし」の〝私”はオグシチャボを正確に描写する。巨大な毛玉となってもまだ伸び続ける黒々とした毛の感触や、雌をいたぶって服従させる雄の暴力的本能の冷徹さや、抜けた毛が舞い上がる鶏舎に満ちる血のにおいが、ありありと伝わってくる。
雛鳥専用のケージで育てられた主人公は、種の垣根を越えてチャボと一体化し、遺伝子に彼らの暴力をすりこまれたのでは、と怯えている。まずこの設定がユニークで興味深い。更にそこに独自の存在感をかもし出す山岸という異物が紛れ込んでくる。妻との破局が原因で想像妊娠しているこの男は、主人公の養鶏場を潰すため、自らのチャボを襲わせて血の味を覚えさせる。山岸は主人公の生活を混乱させるのだが、それでもなお彼女と世間の間を隔てるバリアは揺るがない。あくまでも彼女は、背負わされてしまった暴力の気配に囚われ続けている。
とにかくオグシチャボという、他の誰にも書けない自分だけの素材を生み出した力に、私は才能を感じた。だからこそ、もっと徹底的にオグシチャボにこだわってほしかった。なぜ〝私”が自らの体を描写する時、あれほど力んでしまうのか。なぜ〝……私は生きている限り、私自身が災厄なのだ”などと大げさに決め付けてしまうのか、残念でならない。〝私”が何者なのか、その姿を最も色濃く映し出すのは、オグシチャボの毛なのだ。自分で自分のことを災厄だと哀れんでいては、本当の姿は見えてこない。
最後に、四作ともタイトルに不満が残った。タイトルだけを見ると、読んでみたい気持になれる作品は一つもなかった。決していい加減につけたのではないと思うが、むしろ、考えすぎ、ひねりすぎなのではないだろうか。別に度肝を抜く必要はないのだ。その小説が生まれる前から自然とそう決まっていたかのような、素直なタイトルに出会いたい。