荒川洋治(現代詩作家)
第二九回太宰治賞の最終候補作は、水槻真希子「矩形の青」、佐々木基成「人生のはじまり、退屈な日々」、晴名泉「背中に乗りな」、KSイワキ「さようなら、オレンジ」の、以上四編である。全委員の評価を得た「さようなら、オレンジ」が受賞作に選ばれた。
四編とも、特色と密度をそなえた作品だ。以下、ぼくが感じたこと、選考をとおして学んだことを記しておく。
水槻真希子「矩形の青」は、七四歳で亡くなった大叔父の経営する新宿の喫茶店の片づけにあたる行祐と、その喫茶店でアルバイトをしていた由香莉。二つの異なる方角から、故人の人生を見つめていくというストーリー。
いまはあとかたもない西新宿の淀橋浄水場の歴史をおりまぜながら、物と人が消える無常観にふれる。全体に明るみのあることばで書かれているので好感がもてる。
喫茶店には、「特別営業」の空間がある。客は、そこでひとりになり、心をいやすということだが、わざわざそんな空間に出かけなくても、そのくらいのことは自分の家の部屋でも十分にできることである。浮世離れした感じもするが、作者のロマンティシズムの現れなのだろう。淀橋浄水場のくだりでは、こちらの知らないこと、多くの人が知りたいことが明らかになるが、調べてわかったことをしっかり書いたという以上のものではないとぼくは感じた。
「誰かの話を聞いたり、テレビで見たりして興味を持ったことは、自分でより深く調べてみるといいですよ。その後、わかったことを誰かに話すんです。こういう手順を踏むと、知識が自分のなかに定着しやすいと思います」(大叔父・木崎のことば)。
まったくその通り。だが浄水場を書くことは、自分のなかに知識をおさめることでもある。作品が知識をプールする現場になるのだ。こうした書き方は、作品を自己本位の場へと流してしまう怖れがある。むしろこの作品のいいところは、それまであったものがいつのまにかなくなってしまう、時間の世界をどう受け止めるかということにあるように思う。「一時休息地点」など印象的なことばをつかって後半で多少語られてはいるが、そのあたりにもっと力点をおくべきだった。作者は普遍的なものに向き合う能力を十分にそなえている人だと思う。その資質に期待したい。
佐々木基成「人生のはじまり、退屈な日々」は、日本のどこで、いつ、こんなことが起きているのかを明らかにしないまま、進行する。「紛争」「爆撃」など騒然とした状景が描かれるが、
現実描写に「粗密」があり、こちらはなんの話であるのかつかめないまま読んでいくことに。暴力的な場面もどういう現実とかかわるのか、ぼくにはわからないままだった。ただ主人公をはじめとする人たちがそれぞれの「退屈」さに囚われつつ、それとたたかっている気分は伝わる。現代の状況の一面が露出しているともいえる。それがこの作品のよさである。
別の面でも惹かれるものを感じた。現実的な設定が十分になされていないものは、どのように趣向を凝らしても、最終的にリアルなものにならないことを教わったのだ。日時、場所など、現実との照合を欠いたところからは「現代小説」も「歴史小説」も不可能なのだということがたしかめられたのだ。それがこの作品から教わることだ。ほどよく整えられた他の三編とは異なるものを感じる。
晴名泉「背中に乗りな」は、いっしょに暮らす恋人智章の姉の子ども、みかんとの出会いも含め、どちらかというと、めりはりのない人間関係がすなおに、また注意ぶかく描かれ、ユーモアがある。「カレーを待っている間に、智章が前を向いたまま、わたしの頭に掌をぽんとのせる」というしぐさがあるが、まさにこの作品は、奇妙な、あまり意味のない動作の集まりでつくられているともいえる。
「恋人の姪と三人で暮らすというのは最初のほうこそ妙な感じがしたけれど、掃除機をかけておいてくれたり急な雨の時に洗濯物を取り込んだりしてくれる人がいるのは結構ありがたいことだった。智章の留守中でも帰宅した時に明かりが灯っているのが嬉しくて、月並みな感覚ではあるがお嫁さんをもらったような気分だった。」
ものなれたともいえそうな、なめらかな、現代風の、口語の世界が展開する。「結構ありがたいこと」などという表現は、表現以前のもの。現在のある世代の小説の表現が、よりありふれたものに向かい、これまでのものと離れたところにあることに気づかされる。ところが、この文章には、「最初のほうこそ妙な感じ」とか、「月並みな感覚ではあるが」というように、ときどきの不思議に接する作者の反応がおりこまれている。それでいて全体には平静で、ものにおどろくようすはないのである。すべてのことが、作者の文章のなかで引き起こされ、すぐさま始末されるという印象を与える。外部が生まれる隙間というか、契機が「最初」から失われているのだ。そのような文章の空気が、衣装のように全体をおおう。
まだ作者はほんとうの姿を出していない。見せていない。そういう時点での書き方なのだと思った。そこに感興をみる読者もいていいのかもしれない。
KSイワキ「さようなら、オレンジ」は、オーストラリアと思われる国が舞台。アフリカからの難民として暮らす女性と、同地で出会うことになる日本女性のようすをつづる。学習の場、あるいは労働の場で、接点が見え隠れしながら、彼らの立場や信条が少しずつ明らかになるなど、構成面も巧みだ。
アフリカの女性が発表する文章の題が、最初は「私の故郷」だったのに、「サリマ」という名前にあらたまるなど、なにげないところにも、作者のこまやかな心がはたらく。いま十分に見えると思われることがらについても、さらに内側に身を寄せてとらえなおす。そんな意識と視線が、終始しずかにきらめく。
異国の人どうしが近づくためには、ことばが必要で、こうした「国際色」をもつ作品は、ことばの世界を入口にする。それが基本形だった。この作品は、基本形に沿いながらも、そこから一歩前に出る。ふらりと出会う関係、やわらかな状況下で人を見つめようとするのである。従来の枠組みを解いて、自然な光のもとで交流を求める姿勢は、現実に生まれはじめているものの、これまで十分に描かれることがなかった。それは文学表現の新しさであると同時に、意識の新しさである。