第三〇回太宰治賞の最終候補作は、秋月佳月「ジンクレールの青い空」、寺地はるな「こぐまビル」、井鯉こま「コンとアンジ」、橙貴生「深夜呼吸」、以上四編である。応募総数一一四九編のなかから選ばれただけに、どれも読み応えがある。
四編の感想を、読んだ順に記しておきたい。なお、選考の時点では作者の年齢、性別、履歴などは明かされていない。
寺地はるな「こぐまビル」は、自己成長の記録。離婚した、まだ若さの残る女性・恵が、祖父所有のビルに移り住む。いとこの幸彦は、自分と話をしたたために、家族が死んでいくと思いこみ、孤絶の日々を送る。彼も恵も、何人かの人たちと接するうちに気がつくと、自分の生き方を見つけていたという話である。
幸彦を気にかける若い女性・野島未来、恵が思いを寄せる男性・佐藤トビオなど、脇役のようすもていねいに、印象的に書かれている。また「お金の動きというのは、物語なんです」という税理士のことばも作品の流れにマッチして、側面をいろどる。だが中核となる「わたし」の印象がよわい。はかない。
「夫だった人のことばが突然甦ることがある。お前はつめたい、ということばが朝目覚めた瞬間や食事中や、どんな時でも不意打ちみたいにやって来て何度でもわたしを殴る。耳がきんと鳴る」、あるいは「わたしは一体いつまで、ごめんなさいごめんなさいと思いながら暮らしていくつもりなんだろうか」という一節がある。
この作品にもし足りないところがあるとしたら、他人のことばや生き方にふりまわされる「わたし」の、自己分析ではないかと思う。まわりのことはとてもよく見えているのに、かんじんの自分自身が空洞になっている。そのため、こちらの読後感が固定しない。空洞があることはいいとしても、その空洞を意義のあるものにしなくてはならない。その努力が十分ではないように思えた。
「お前はつめたい」と吐き捨てた夫が、どういう人物なのか。それを思えば、「お前はつめたい」ということばはそれほど重いもの、彼女の中心に刺さることばとはならないはず。いっぽう前記の、お金は物語であるということばは、誰が発したかのレベルには属さないことばであり、鑑賞に耐える。むしろこうしたことばから「物語」を展開すべきではなかったか。とはいえ人間についての興味が心地よく伝わる、いい作品だった。
橙貴生「深夜呼吸」は、中学一年の女の子・桐野の成長の記録。父と母が離婚する雲行き。母と妹は家を出たため、桐野は父と暮らす。食事もひとりでつくる。掃除も、洗濯も。弁当も自分で。店で食品をひとつ買うのも大変。お刺身って高いのだ、とか思う。部活の合宿の費用も、肩にのしかかる。そのあたりが、変な言い方だが、文章がとてもいきいきして、読んでいて面白いし、心地よい。ある日、おばあちゃんが来ていて、洗濯も掃除もすませていた。
「人に何かをしてもらうのは、とっても楽だ。でも、楽なのには理由がある、と桐野は思う。その理由の中身はあいにくわからない。子どもだから、という一概なものでないことは確かだ。」
こんな、ふつうの情景も心にふれてくる。自立途上の、女の子の心が、きれいな文章でとらえられていると思う。もうそれだけでみたされる思いになった。
ある夜、「白い人」にさそわれ、すみれさんという女性の店に運ばれ、彼女といっしょに暮らすことになる。きっかけとなった「白い人」のイメージは希薄だが、そのようなこともあるかもしれないと思いながら、ぼくは読んでいった。「家族」を離れたはずなのに、すみれさんと桐野の間にも「家族」のような空気が生まれるところも印象的だ。料理、洗濯、買い物風景などこまかく書いているところと、「白い人」のようにこまかくないところがある。その「荒れ模様」がこの作品の魅力かもしれない。不思議とバランスがとれているのである。選考の場で最後まで残る作品だろうと思った。
三つ目に読んだのが、秋月佳月「ジンクレールの青い空」である。
小規模の介護施設で働く、一九歳の青年、仁駈の物語。ちょっと性格的にはカルイ人だが、「基本、」まじめ。利用者であるおじいちゃん、おばあちゃんにも人気がある。利用者どうしも心が通じあうように、あれこれと気を回すこともできる。
通いの利用者である「山本のじいちゃん」は、特攻隊の生き残り。その孫娘・飛空美は、駈より三つ年上のパイロット。二人の話をきくうちにゼロ戦に興味をもち、いつしか駈も、空を飛ぶことに。その顚末をユーモラスに描く。
普段の会話もひとつひとつ面白い。ラストのアクロバット的情景に至るまで、ぼくは身をゆだねて楽しんだ。
「空が青い。当たり前か。でも青い。いちばん青い。」
会話でないところは、こんな文章である。会話と、同じか。
こうして、見える範囲のところを読んでいくと(どこも見えるのだけれど)、空にあるもよし、地にあるもよし、という心地になれる。あまりにとんとん拍子なので通俗性は否めない。戦争に対する認識が十分ではない点を指摘する意見もあったが、ぼくはそうは思わない。作者は二〇代後半あたりかと思った(もう少し年代が上であることを選考のあとに知った)。戦争を知らない世代が戦争について、ここまで書くことができたのなら十分だと感じた。大切なことは書かれていると思った。主人公の性格のよさが作品をしっかり支えている。
職場は「小規模」な施設。この作品も文学的な厚みということでいえば「小規模」。でも作中の介護施設がそうであるように、「小規模」だからこそ実現できるものがある。空を飛ぶこともできるだろう。もう一回、読みかえしたいと思う作品。それはこの「ジンクレールの青い空」である。
井鯉こま「コンとアンジ」は、こまぎれの文体と、透明感のない混濁した語りに抵抗を感じ、読み通すのがとてもつらかった。アジアの某所での物語であり、そうした未知の現実世界を通ること、その世界のなかに投げ込まれることによって、日本語もまた紛糾し、壊れるという事情は、理解できるものの、書き方に難があると思った。
最終場面には、小説という形式を手離すかのような混沌とした迫力があり、文章の地力に圧倒された。一般読者の立場にたてば、評価はかなりちがうものになるだろうが、文学的な密度という点で他の作品にはないものがあることは明らかだ。
四人の作者の、これからの世界を楽しみにしたい。