三浦しをん委員に続き、小川洋子委員が去年で退任したのを受け、その後任に、今年から奥泉光委員、中島京子委員が新たに加わった。従来の四人の体制に復し、応募総数は一四七三作と今回も多い。慶賀すべきだが、選考結果は、多勢に無勢。私としては不本意な結果となった。とはいえ、最終選考に残った四作がこうして活字になる。この賞の特色の一つがこのような形で生きることを、幸運としよう。
豆塚エリさんの「いつだって溺れるのは」は、勁髄損傷を被った女性を主人公とする物語。自力で歩けず、立つこともできない葉子が、意のままにならない世界のなかで、同じく読書好きな男性との出会いをきっかけに、新しい世界へと歩み出ていく。一種の恋愛譚であり、ある切実さのようなものが作品世界に張りつめている。しかし、その世界が淋しいのは、書き手が、主人公以外の登場人物たちに、あまり同情心というか、関心をもたないせいではないかと思われた。夫の修司、恋愛の相手の高村、ヘルパーのカヨ。このうち、高村が死に、離婚が成立し、新しい日常がはじまる。最後に、一人残され、障害のある葉子が、修司と時折、連絡をとりながら、カヨに助けられ、生活していくところは、変に作っていなくて好もしい。ただ、そこに勢いがないのは、ほかの登場人物との関係で、書き手が、あるいは主人公が、しっかりと相手の心と生活の果て、折り返し地点まで行って、取って返しているのではないからである。タイトルの意味が不明。恋愛のきっかけを作る作家が小川洋子という小説家であるところにも、私は少し躓いた。
サクラ・ヒロさんの「星と飴玉」は、読んでいくとぐんぐんと引きこまれる。仕事をさぼり、ネットカフェに棲息するブラック企業の営業マン中下が、出会い系サイトで知り合った人妻とのセックスにあけくれている。そこで「飴玉」を口に含むナナという女の子と知りあい、やがてこの子を救おう、と不思議な奮闘をする。高校のときの同級生のエリート、高峰が、官僚をやめて「占い師」になっていると知り、会いに行くまでが第一部。その高峰と組んで、「星」にも似たパワーストーンの販売で金儲けをするが、やがて破綻するまでが第二部。話は面白いが、いかにも劇画ふうで、私は『カイジ』というマンガを思いだした。終始、元気ながら粗雑な感じがつきまとう。大きな舞台立ての問題として、ナナとの出会い、高峰との偶然の出会い。こういう設定・展開は、ありうるだろうか。本物のエリートである高峰が、途中から、急にうすっぺらくなる。しかし、金儲けが人生の目的なら、官僚をやめず、エリートであり続けるのではないか。とはいえ、私には、最後、ナナが「そこそこ」の成功を収め、いまの境遇から抜けだし、それを「そこそこ」に救援できたというところで、主人公が脇にどいている終わりが、なかなかよかった。この人には、素直さがある。もっとほかのテイストの作品も書けるだろう。
受賞したのは、夜釣十六さんの「楽園」で、ほかの選考委員全員の支持が集まった。しかし私の印象は、ありがちな戦争と歴史への関心で作りあげた、やや通俗的な作というものだった。警備会社に勤めるパチンコ三昧の三〇歳の青年橘圭太が、会ったことのない祖父からの手紙で、トンネルをくぐったところにある元炭鉱町の「異境」に入り込む。そこで南洋の異貌の植物を育てる「祖父」を名乗る人物と知りあい、戦争の記憶を継承・伝授される。やがて、その「祖父」も、継承者であって、圭太のほんとうの祖父から記憶を伝えられた、元石油ビジネスに携わった企業戦士であったことがわかる。日常世界とこの「異境」のあいだに、診療所があり、そこには元企業戦士の娘である女医が女児を伴いひとり勤務している。それを助けようと主人公は看護学校に通うことを決める。最後、彼は、この「歴史の記憶」に彩られた「異境」に心を動かされ、祖父の戦争体験を引き継ぐ気持ちになっている。
作中、九州の方言が生きている。読んでいて心地よい。これがこの作品の手柄なのだが、たとえば、赤坂真理『東京プリズン』と百田尚樹『永遠の0』を足して二で割ると、こういうものになるだろう。悪い作品ではないが、戦争の記憶、歴史的な感覚の回復など、あまりに時代のいまの「合意の水準」に合致しすぎている。しかし、この世界は、そういう「文学的な意匠」でできているのではないように思う。ただし書き手は女性。その意外さが、希望かもしれない。
そういうわけで、私は残った広井公司さんの「トランス・ペアレント」を推した。一読して、ほかの作品とはモノが違う。受賞作は、これで決まりだろうと軽い気持ちでいったので、選考結果は意外だった。文章の堅固さ、作品に向かう書き手のあり方、写真でいえば、画素数の桁が違う。作品は一見すると、地味である。父がある日いなくなった。母の生活があわただしくなった。別居、そして離婚へと進んでいく両親のもとでの、小学校三年生の女の子「とう」(透子)の日々がたんたんと描かれている。しかし、この文章のみずみずしさ、子供の目の的確さ、それを地の文でではなく、親と子のやりとりでさしだす小説的力量等々、この人の文学的な才能には並々ならないものがある。脇の点景人物である小学校友達のジュン、ユリカ、エイちゃんが、しっかりと三者三様に描き分けられているところにも、舌を巻いた。あまりに小説的野心がない、書きやすい主題についている、という指摘が、ほかの選考委員からあいついだが、いまのような時代、「広井公司」という何の変哲もない名前で、じつに小さな存在にとっての小さなできごとを描くことは、不逞な野心なくしてはできない。この種のいまどきの小説につきものの、いじめもない。不登校もない。反抗の叫びもない。丁寧に、何も起こらない少女の日々のうちに進行する心の成長がたどられている。描かれていることの小ささから外に出ないことが、この小説を大きくしているのである。
ただ、難がないわけではない。語源的に根拠のない「トランス・ペアレント」(透明?別居中の親のあいだにいる子供?)は、いただけない。また、何人かの委員から指摘があったように、やや、長すぎる。母の日記はいらなかったのでは、という指摘にも立ちどまらせるものがある。おばあさんの家にいくところが、ちょっと長い、と私も感じる。なぜ「長くなったのか」。それを書き手は考える必要がある。それは、【なぜ】、【こういう小説を】、【あなたは】、【書いたのか】、ということでもあるからである。
いくつかの個所で、宮崎駿のアニメのシーンを思い浮かべた。それをなぞっているとも感じた。猫のヒョン、など。しかし、それは書き手の意図したことかも知れない。そこにも不逞さが窺われる。よい作品は夢を見させる。私はこの作品が受賞作にふさわしいと思った。