第三一回太宰治賞には伊藤朱里「変わらざる喜び」が選ばれた。二〇代後半の若い女性作家が新たに誕生したことになる。 受賞作を含め、最終候補となった四つの作品はそれぞれこれからの文学の方向を指し示したように思う。以下、感じたことを記しておく。
稲葉祥子「装飾棺桶」。大手損害保険会社につとめる男性が、ガーナの装飾棺桶を知り、興味をもつ。彼はザリガニの形をした装飾棺桶を買いこみ、ガレージに置き、そのなかで眠り、夢を見る。夢ではさまざまな過去のことがらが浮かび、押し寄せてくる。「すでに起こった過去はどれもみな優しい気がした」。他の人と変わりのない平凡な人生を送る男性への憐れみのようなものが、全編を通して感じとれた。近くにあるものとも、離れるようにして生きている時代だけに、身に迫るものがある。こちらもこの作品のなかに入って、身をよこたえ、あれこれを考え、思ったりすることができるのだ。
女子中学入学試験の面接のとき、娘は終始笑顔だったというところがある。家族がひとつになるこの光景は、とても印象的だ。控え目な表現ながら、この作品の求める「家族」像が感じられた。こういう歩調のゆるむような場面を、もう少し読みたかった。「装飾棺桶」一点に絞ったことで、シンプルになり理解しやすいが、そのために周囲の世界が少し窮屈になった気もする。この素材は、中編ではなく短編仕立てなら効果的だったかもしれない。ともあれ、親しみのある、いい作品だ。
高萩匡智「川向こうの式典」。文章に特色のある作品だ。「天から降ってきた輝かしい称賛は、自身に淵源があると慢心せずとも、のちに父のお陰だと認められても、一度袖を通した、自尊過剰の紫衣(しえ)を脱ぎ、庶民の浅葱裏(あさぎうら)に着替えるのは、根気強い内観なくしては、できなかったはずです」。人にもよるだろうが、一度読むだけでは、のみこみづらい厄介な文章なので苦労した。すべてを理解し、認識するという、一段高いところから、文章が差し出されている気がしたのだ。最後までこの気配は変わらないので、これも文章のひとつの姿として受けとめなくてはならないのだろう。
被災の問題、被災のなかの個別の問題、格差の問題など、さまざまな局面が現れる。主人公には指し示すことはできるが、決断する力はとぼしいように思われた。いったい何を求めているのか。作者は何を表現したいのか。最後までぼくにはわからなかった。認識することと、表現することは別のものであると思う。ひとつの場所に立つと、見えているものも見えなくなる、あるいは見えていても切り取ることができない、そんな空気に人がいま包まれているのだとしたら、現代の一端を表わし得た作品として読むこともできる。
佐佐木陸「あたらしい奴隷」と、伊藤朱里「変わらざる喜び」の二編を読み終えたとき、ぼくは、「この作品のほうがいい」と思い、ぼくのなかで決まったので、とてもよかったと思った。ところが、うかつというか、不思議というのか、選考会の前日になって、「どちらの作品がいいと思ったのか」を、ぼくは忘れていたのだ。こんなことは、あまりないことで、とても困ってしまった。それで、どちらだったのかを知るために、あらためて読んだら、どちらがいいのかを少し思い出せた。だが、いまもまだ、どちらかひとつの作品ではなく、二つの作品が目の前にあるような気がするのだ。
「あたらしい奴隷」は、バレエの教室に通う高校生トガノの話。惰性を自覚し、教室を辞めてしまうのだが、浜辺でひとり練習をする。そこに少女が現れる。トガノ、少女、そしてトガノの親しい友人カサイが、それぞれの傷をかかえ、境界を意識しながら、出会い、別れ、その先を生きていくという展開である。バレエの練習の場面。「海と陸との境界をぼんやり眺めている」から始まる文章は、心をとらえるものだった。
「黒のなかにすこしだけ光るような粒がある。いくつかをトガノはつまもうとするが、何度やってもこぼれてしまい、届かない。ため息をついて砂をぱんぱんと払い、長い髪をかきあげる。乱暴にローファーを脱いで、そのなかに丸めた靴下をつめこむ。砂浜に足を踏み入れると、ひんやりとした塊が外反母趾を包み込む。トガノは海に向かってお辞儀をすると、ゆったりと舞いはじめた」。
連続する動きのあまりの美しさに、少し怖くなって、目を閉じて味わいたくなるほど、みごとな文章だと思う。この作品には、いまは無くなったもの、消えた人、あるいはよく見えないものをふっと思いだす場面が多い。そうした一瞬を通して、人がひとつ先の自分を求めていく姿を、静かに書きとめていく。砂浜のバレエのシーンも、回想のようにも見え、現在の光景のようにも見える。いくつかのことがらが未消化のまま作品は終わっているけれど、書かれていないこともまた、いずれ何かのひとつに数えられるような、深みのある空気。感覚的でありながら、思索的にもゆたかな内容をそなえた秀作だと思った。
「変わらざる喜び」は、第一行から、何かの異物を含んでいる空気があった。「恋人」ということばは、通常は限定的に使われるものだが、ここではそうではない。予感にみちた始まりだが、それが何かはかなり読みすすめても気づかない。通常の人間関係、愛情関係から切り離された人たちが、こまやかなドラマを積み上げていく。そのこまやかさは特別なもので、目に立つところだけを拾っても各所にある。「方言」を耳にする瞬間ひとつも、これまでの小説にはあまり見かけないものだし、なにより伏せられた「恋人」の登場にはおどろく。だが、そのおどろきも地上を離れたものではない。つくりものではない。
いま懸命に、誠実に生きようとすればするほど、さまざまな性的関係、人間関係のなかで、人は少数派に追い込まれていく。そのなかで新しい「個人」像をたったひとりで、隣りあう人も、敵対する人も、それぞれにひとりで探り出していかなくてはならない。そうした時代のなかの生き方を、この一編は集約し、映し出している。心の深い地点を行き来するだけに、密度が濃い。見どころも多い。
少数派の存在や状況を、表現形式としては多数派に属する小説がになう、というのは一面不思議な現象だ。これまでも例はあるが、さらに普通のことになるのだろう。そのことの意味を考えるのは、まだ先の話かもしれない。
結果的には、「変わらざる喜び」が選ばれたけれど、他の三作品も、それぞれ印象に残った。忘れがたいひとときを与えてくれた。みなさんの活躍を楽しみにしたい。