小説に物語は必須ではない。物語を欠いた小説も世の中に存在するし、物語が作品の魅力の中心でない小説は数多い。実際、物語は小説だけではなく、芝居にも映画にもTVドラマにもあるわけで、では何が小説に固有なものなのかというならば、いうまでもなく、小説のかたり、つまりは文章である。映像の素晴らしい映画が面白いのと同様、文章さえよければ、物語などはどうでもいいとさえいいうるので、むしろ筋を云々する必要がないくらい、かたりの魅力に溢れていることは、小説のひとつの理想である。「吾輩は猫である」や「草枕」の、あるいは「春琴抄」や「細雪」の、魅力の大きな部分がかたりの面白さにあるのはいうまでもないだろう。
しかし一方で、小説は書かれた物語であるとの定義も的外れではなく、物語が小説を推進する発動機となり、魅力の源泉たりうるのもたしかで、ことに省筆を旨とする自然主義リアリズムの影響下で、かたりのつくり方の方向性が狭く限定されたきらいのある現在、世間に流通する小説の大半は物語を中心に編まれているわけで、今回候補となった四作品も同様、したがって物語をいかに扱うかが作品の死命を制することになる。
桃太郎が猿たちと鬼退治に向かったり、浦島太郎が助けた亀に連れられて竜宮城へ行くように、物語は誰かが何かをする、という形を通常はとる。だから近代以降の小説では、作者が、誰か(=登場人物)に何かをさせることになるのだけれど、登場人物が作者の作為のままに何かをさせられているのでは駄目で、むしろ登場人物が自らの思想や性格や個性ゆえに何事か行い、その結果、物語が立ち上がってくる――少なくともそう見えるのでなければならない。物語の檻に閉じ込められた人物が、プロットの手枷足枷に引かれて動くだけでは、小説の魅力は生まれてこない。彼らが物語の桎梏を打ち破って生動し、そのことがより大きな物語の地平を切開く。これが理想となる。「罪と罰」でいうならば、一青年による金貸し老婆の殺害――いかにも新聞三面記事的な物語から出発しながら、ラスコーリニコフをはじめとする人物らの思想や行動を、単なる物語のキャラクターでも役柄でもない、存在の手触りとともに追究し描くことが、市井の小犯罪事件をはるかに超えた、巨大な物語となって結実したのである。リアリズムの手法の下で物語を扱う作家にとって、ドストエフスキーの小説群こそは何よりも参照すべき教科書であるだろう。
豆塚エリ「いつだって溺れるのは」と、サクラ・ヒロ「星と飴玉」の二作品は、右の意味において、登場人物が物語の檻に閉じ込められたまま、生動を放つことがいまひとつできなかった。前者は、車椅子生活をする女性の恋愛物語であるが、彼女の生活ぶりがもう少し丹念に描かれるべきで、たとえば身体の不自由な妻を支えながら、男権主義的にふるまう夫との関係の様相がいまひとつ摑みにくく、元高校教師の男との恋も、世間に流通する恋愛物語をただ粗雑になぞっただけになってしまった印象がある。二人の出会いのきっかけになるのが「小川洋子」の小説というのもいただけない。これは「村上春樹」でも「伊坂幸太郎」でも駄目なので、出会いの運命を導く事物として小説をどうしても登場させたいのなら、時の風雪に磨かれた古典でなければ象徴性を発揮できないわけで、この辺りは、細かいことのようだが、作家のセンスが一番厳しく問われるところでもある。
「星と飴玉」は、いわゆるブラック企業に勤め、ネットカフェに入り浸る主人公の、希望のない暮らしぶりを描く部分では、筆はいきいきして、レトリックも冴える。ところが物語が動き始めるや、主人公は物語に支配され操られる木偶人形に変じてしまう。小説中で重要な働きを持つべきネットカフェの女性も、怪し気なカウンセリング業で稼ぐ高校時代の同級生も、一定の役割を果たすキャラクターの域を出ず、結果、小説空間が奥行きを欠いてしまった。奥行きのない、面白い小説はもちろん存在する。ただしそれは「二次元」的世界にふさわしいかたりが採用されているからで、本作の文体はリアリズムの伝統内にあって、「三次元」的な遠近法にしたがって書かれているので、奥行きは捨ててもスピード感に賭けたいのであれば、かたりの文章を工夫するところから出発すべきではないかと思う。
広井公司「トランス・ペアレント」は、物語の支配力を極力抑えることで、落ち着いた世界を構築することに成功している。それは視点人物たる主人公に思春期前の少女を据え、彼女の眼に映る世界を丹念に描き綴るという方法を採ることで、物語の暑苦しさから逃れえているからである。物語とは基本的に通俗なものなのであり、近代小説は一貫して通俗の毒を薄めることに腐心してきたのであるが、物語の中心部分を直接描かずに、仄めかすにとどめることで通俗の毒を薄める技法は、一つの有力な技法であって、本作でも採用されている。表題にペアレントとあるように、少女の両親の離婚が物語の中核をなしているのだけれど、離婚の経緯や原因については、仄めかされるだけで判然とはかたられない。物語の中心を避けつつ小説の構築性を維持するには、じつは高い文章センスが必要なのであるが、ここでは子供の視点を設定するという工夫で困難が軽減されている。結果、一定の完成度が実現された。が、子供視点で世界を描くこと自体、ある種の異化効果を持つことは昔からよく知られているのであって、やや点が辛くなるのはやむをえない。気持ちよく読み進んではいけるものの、どうしても物足りない気持ちにさせられてしまう。
この点からすると、アジア太平洋戦中、インドネシアの島嶼と思しき場所で、憲兵として宣撫工作に従事していた男の経験が、二世代の人物に受け継がれ、語り継がれていく様を主軸に据えた、夜釣十六「楽園」は、物語を積極的に導入した作品で、だから物語の毒に汚染されたところも随分とあって(たとえば女医の出てくる場面など)、そこはたしかに傷ではあるけれど、しかし傷をはるかにしのぐ魅力がある。なにより交錯するかたりの作り方と構成の巧みさが、人物たちの経験をたしかな手触りとともに作品中に定着させ、小説世界に広がりと奥行きを与えることに成功している。小説の舞台はおもに廃鉱の窪地であるが、この狭い場所にたくさんの「声」が響き出すのを耳にするとき、小説を読むという経験に固有の喜びが湧出するのを自分は覚えた。ともすれば通俗に堕しかねぬ、手垢のついた物語をいくつも導入し、その力を大胆に解放しながら、小説としか呼びようのない何かが物語の檻から飛び出す姿には躍動感が溢れている。受賞にふさわしい作品だと考えた。