時間をかけて書かれ、仕上げられたものを読む。選考にあたるとき、いい作品とめぐりあえることがよろこびだ。今回もすぐれた作品と会うことができた。
第三二回太宰治賞には、一四七三編の作品が寄せられた。そこから最終候補四編が選ばれた。
そのなかでは、サクラ・ヒロ「星と飴玉」、夜釣十六「楽園」の二編が受賞にふさわしいように思った。ただし、広井公司「トランス・ペアレント」にはそれらに劣らない魅力を感じたし、豆塚エリ「いつだって溺れるのは」にも興味をおぼえた。
以下、四編の感想を記しておきたい。
「星と飴玉」は、ブラック企業で働く営業マンが、ネットカフェで、一九歳の少女とめぐりあう。モニターごしの会話を通して、彼女への興味はふくらむ。一問一答スタイルの対話が、スピーディーにつづけられるなか、青年は、高校のときの同級生高峰と再会し、高峰の奇妙な「仕事」を手伝うことに。高峰は、カウンセリングと称して、「石」を売りつける。それが「仕事」である。暴力沙汰となる最後の場面まで、ほぼ直線的に物語は展開。不安な日常から脱しようとする人たちの心の動きが描きだされていく。
少女との会話は、ストレートで面白い。また、「これらの石は星の息子であり、我々の祖先であり、我々の未来なのだ」という高峰のセールストークも同様。パワーストーンのくだりで、エネルギーの存在が「証明」されていないことが重要なのだ、という単純なことばにも思わずひきこまれる。
ここで語られていることはさほど新しいことではないが、ひとつひとつの場面が作者の筆でしっかりとおさえられているので、何かを学習するときのスピードで内容をのみこむことができる。特に面白かったのは、フランス文学の教授夫人と思われた女性が、意外な一面をみせる場面。人間にはいろんな面があるという、これもさほど新奇なことではないのに、文章を通して受け取ると、残像は深い。少女は飴をほおばる。「長持ちするから好き」。その飴玉の感触が、あとで石をのむときにも活かされるなど、物やイメージの関係がとてもうまく使われていると思った。痛快な小説を痛快な気分のまま楽しむことができた。筋が通りすぎて、読む人が自由な歩行を楽しめないようにも思うが、主人公をはじめとして、いろんな人たちの感情と、その変化を味わうこと。これがこの作品が与えてくれる経験である。
「楽園」は、それに比べると分量的にもひきしまった作品だ。戦争体験をもつ人、その体験を語り伝える人、そしてその二種類の人間の体験を同時にうけとめる現代の人、という、おおきく分けて三つの種類の人間が登場し、過去と現在を往復して、物語をつくる。
その交錯を通して、他人の経験は、自分のなかに流れこむ。冒頭近く、にせの「祖父」の昔語りをきくとき、「三回続けて聞くと、さすがに何となく頭に入ってくる」。これがこのあと起きることの予兆であった。体験のなかでも、いちばんつらいこと、大切なことは「株分け」しない。そんな、ほんものの祖父の伝聞もまじえながら、他人による「自分史」が幾重にも折り重なりながら、着々と形成されていく。その過程を軽快に描く。戦争の語り方としても新しいものがあり、目をみはった。
自己愛が話題になるが、ほんとうの自己愛とは、自分について知りたいという思いが、その思いのあまりに、さらに拡大し、自分のひとつ前、さらにはその前というふうに、世代、時代をさかのぼって、いまの自分に行き着くまでの人びとの歴史を想像することだろう。そうした視角をもたずに、自己愛が自分ひとりにとどまるいまの人たちは、真の意味での自己愛が足りない人というべきだ。「楽園」には、自己発見のための正統的な道筋と、姿勢がある。それはいまいちばん美しいもの、えがたいものかもしれない。
「トランス・ペアレント」は、評価の分かれる作品だと思った。また評価が分かれるところに、この作品のよさがあるように感じた。小学生の女の子の学校での、家庭でのようすを描く。冒頭の会話から、話している二人の関係がわからない。父が柿の木の間から現れるまで、いや現れても、それが父であることが読者にはわかりづらかったりするなど、登場する人たちはいくぶん不透明な空気のなかで動きをはじめる。ただし、動きだしてからも、特別なことはない。小学生の子どもには、このくらいという認識の範囲のなかで、さまざまな微動をつづることで物語は展開する。そのために一見穏やかで平凡な作品のように見えるが、注意ぶかく読むと、そこかしこに、微動のドラマがあり、それが文章を静かに高揚させる。でもそのまま終息する。そんな作品である。小文字でつくられた物語という印象だ。この書き方は意図されたものだけに、そのまま済ませることができない。だからこれを高く評価することもできる。でもせっかく、このような才能があるなら、波風を立てるような設定での制作もできたのではなかろうか。それでもぼくはこの小説にひかれた。友だちから、何をしているのと聞かれて。
「何してるって、歩いてるんだけど」
少女はよく「歩く」。友だちと、あるいはひとりで。その「歩く」場面が、作者の文章のなかではいちばんいいように思った。子どもだからまだ何も見えない。感じとれない。でも「歩く」ことができる。そこから、ぼんやりと、見えてくるものがあるのだ。これがこの小説の歩調を定めた。そのように感じた。このあとも新しい作品に向けて歩いていく人だと思う。
「いつだって溺れるのは」は、頸髄損傷で車椅子の生活を送る若い女性が、彼女を献身的に世話した夫と暮らす。そこに高村という男性があらわれ、好きになる。だが高村には過去があった、という話である。
ひとつひとつに語らなくてはならない背景があるのだが、ひととおりのもので、さほど深い追求がない。その意味で、前記の三編に比べると存在感のうすい作品という印象になる。高村とは、読書を通して知り合った。そのあたりを特化して語ったほうが、ふくらみが生まれたかもしれない。でもバランスのとれた書き方ができる人なので、これからが楽しみだ。
以上のような感想をもった。
選考では、「いつだって溺れるのは」と「星と飴玉」が外され、「楽園」と「トランス・ペアレント」の二編に絞られて、「楽園」に支持があつまった。「楽園」の作者が女性であることは、あとから知らされた。いずれにしても若い人の受賞である。ぼくはもう自分に期待する年ではない。新しい世代の人に期待することにした。そこに、よろこびがあることを知った。「楽園」は、年齢も立場もちがうけれど、これまでとは異なる、人間の楽しみを切りひらく作品なのだと思う。
みずからの作品に、期待と希望を抱いて、これからも書きつづけてほしい。