「変わらざる喜び」に隠された企みに気づいた時、自分の迂闊さに呆れ、妙に慌ててしまった。どんなに取り繕っても、所詮、お前の価値観などその程度のものなのだと、何者かから糾弾されたような気がして、自己嫌悪に陥った。もちろん作者の悪意のせいではなく、読み手である私自身に原因があると十分に承知はしていたが、後味の悪さからしばらく抜け出せなかった。
最初、私はこの企みに否定的だった。なぜ、わざと読者に誤解を与えるような書き方をする必要があるのか。事実が明らかになったところで、新たな視界が開け、作品の世界に奥行きを与えていると言えるだろうか。むしろ、作者の作為が小説の構えを小さくしているのではないか……。そういう恐れを持った。
しかし、もう一度読み返し、選考会で議論を重ねてゆくなかで、少しずつこの小説が持っている本来の姿に近づくことができた。受賞作に決定した時点では既に、私が味わった自己嫌悪などどうでもいい問題になっていた。
まず何より重要なのは、この企みが決して小説の目的にはなっていないという事実だ。だからこそ、再読した際、興味がそがれるどころか、逆により深く小説の中に入ってゆけた。一行めから、主人公がいかに用心深く、丁寧に自分の壊れた内面を語ろうとしているかが伝わってくる。更には、決定的な傷をもたらしたと思われる父親の行為について、核心を語ろうとしない彼女の無言が、重く胸に響いてくる。作者は読者に罠を仕掛けたのではない。そのようにしか語ることのできない女性を描いたのである。
ここで大切な役割を果たすのが、ゴスロリファッションで女装するメリッサだろう。あいまいな語りの中に身を潜めている主人公に向かい、メリッサは輪郭のくっきりした言葉を遠慮なくぶつけてくる。存在しているだけで常に、理由の説明を求められる人生を送ってきたメリッサは、自分を守るための武器として言葉を磨き上げている。主人公に向けられる強靱な言葉が、混沌とした彼女の心を映し出す鏡になっている。
一つどうしても忘れ難い場面がある。母に電話で噓つき呼ばわりされた夜、主人公はどこからか流れてくるピアノの音を耳にする。丸ごと世界から許され、そのことに気づく必要も感じないままにピアノを弾いている、見知らぬ誰かに、彼女は発狂しそうなほどの嫉妬を覚える。
この短い場面にたどり着く時、不倫、虐待、同性愛、接触恐怖症といった素材たちが、小説を構成するための一要素ではなく、主人公の人生を支配する切実な苦悩なのだと気づかされる。
ラスト、彼女は混沌の渦中に自ら沈み込む。メリッサを命綱にしながら、浮上するために潜水する。どんなに微かでも、その先に感じられる光の気配が救いとなる。主人公本人が自らの傷を語るという、もしかすると自己憐憫に陥るかもしれない危険な方法に敢えて挑んだ伊藤さんは、最後まで見事に橋を渡りきったのだ。
四作品の中で最も派手に破綻しながら、最も忘れ難いインパクトを残したのは、「あたらしい奴隷」だった。踊りの場面にみなぎる独特の緊張感、危うさ、いびつさの前で、思わず私は立ちすくんだ。特に砂浜で、流木をバーにし、波を音楽にして踊るイーナの描写が素晴らしい。家族から耐え難い暴力を受け、自分の生まれ自体を全否定された彼女が、踊りを祈りに昇華させ、肉体から解放されてゆくさまが、見事に浮かび上がってくる。逃げ場のない彼女の苦痛と出会うことで、トガノの肉体も大きく揺さぶられる。体言止めを多用した、ごつごつとした手触りの文体が、若い二人の荒い息のようなリズムを刻んでいる。
イーナが母親に暴力を振るわれているところを目撃したトガノが、父の残したレコードをネットオークションで売りさばき、資金を作って彼女と家出しようとする、そのあたりまでは、凄い小説になりそうな予感がしていた。ところが突如、殺人事件が発生する。しかも犯罪史に残るような、特異な殺人である。そこから作品は迷走しはじめ、無闇に膨張し、浜辺のシーンの輝きを失ってゆく。本当に残念でならない。
血腥い事件など、別に必要なかったのではないかと思う。小さな範囲で構わないから、トガノの立っている地面を、もっと静かに、深く掘り下げていってほしかった。トガノとイーナが踊っているだけで、十分だった。そこにこそ、書かれるべき物語があったはずなのだ。
小説によってしかたどり着けない場所がある。作家は皆、その道を探して悪戦苦闘している。佐佐木さんの次の作品を楽しみに待っている。
「装飾棺桶」に描かれるのは、凡庸な一つの家族だ。自尊心ばかりが強く、相手をおとしめることで自らの立場を守ろうとする、仕事人間の夫。その夫と口をきこうとしない妻。拒食症の娘と役者を目指す息子。彼らの家庭が崩壊し、夫が死に至るまでの歴史を、ザリガニの棺桶を中心に据えて淡々と描ききっている。暴力もあれば不倫もあるが、決定的に物語を動かす要因にはならない。表面上彼らは平凡な日常を送る。ただ一つ、毎晩夫が眠るザリガニの棺桶だけが、不穏な空気を漂わせている。ガレージに横たわるそれは、家族一人一人の凡庸さに隠れた異様さを凝縮し、象徴しているかのように見える。
ただ、私が最も不気味に感じたのは夫でも妻でもなく、棺桶を売るガーナ人の男だった。
「片目が取れてからザリガニの調子が狂ったのでしょう。お客様、あれはなかなか精密なものでございますからね……」 と語る男の声が鼓膜に張りつき、ざらざらとした気色の悪い感触を残した。同じような凄味を、棺桶でよみがえる夫の過去にも感じたかった。
「川向こうの式典」は、災害を繰り返しながら姿を変えてゆく地方都市の様子を、上手く描き出している。新たに流入してくるものと、昔からあるものに二分されるなかで生じるひずみ。災害の種類によって被災者が区別される矛盾。地方都市特有の格差。ボランティアへの違和感。復興の名のもとに横行するインチキ。等々の問題点に現実感がある。そこに暮らす青年の鬱屈を表現する言葉も、個性豊かだ。
ただ、作者がその個性に溺れすぎた面はないだろうか。装飾過多で読みにくい文体は、小心者で皮肉屋で、不平等に対する不満に凝り固まった主人公の声を忠実に再現しようとした結果なのかもしれない。しかし私はもっと彼を応援したかった。最後、……おばあちゃんと、二人だけの式典を開きましょうね、と独白する彼の素直さを、もっと味わいたかった。