初めて文学賞の選考会に参加した。新人賞の選考委員をお引き受けしたのも初めてのことで、緊張して会に臨んだが、先輩選考委員の先生方の批評をその場所で聞くことができるのは、じつに役得だった。
受賞作「楽園」の大きな筋は、太平洋戦争中にインドネシアと思われる架空の国で憲兵をしていた男の記憶を、孫である三十歳の男が引き継ぐというもの。しかし、じいさんが孫に語ればそれで何かが引き継がれるというほど、ことは簡単ではない。記憶の継承の困難さ自体が、作品のテーマである。
作者は、戦争の記憶を現代につなげるためにいくつもの工夫をしている。一つは、憲兵だった男と、その孫の間に仲介する人物を登場させたことだ。この人物には、その人なりの過去と記憶があり、それゆえに憲兵の記憶を引き継ぐ、という設定には、違和感はなかった。作品の鍵となるウィジャヤクスマという花、蝶や影絵人形など、エキゾチックな小道具を使って、いい効果を引き出している。擂鉢の底のような窪地に、南国の密林を再現したかのような空間という設定も、幻想的な要素を生かしていた。はめ込まれたエピソード一つ一つに意味があり、それらが有機的なつながりを持つように書かれている。人物も描き分けられていて、丁寧な仕事だと思った。ただ、この題材なら、もう少し長くてもいいのではないか。祖父の体験を、仲介者の語りで説明してしまうために、憲兵時代に殴りつけてしまった青い目の女を敗戦後にどういう気持ちで探したのかとか、敗戦で一転して悪者になったときの屈辱と自責と諦観のないまぜになった心情などが、読み手に、浅くしか伝わらないことは否めない。一方で、これだけコンパクトな小説に長い時間と複数の記憶を織り込んだ力量にも感じ入った。
四つの作品の中では、私はこれを推した。選考が終わってから、作者のプロフィールが明かされ、若い女性が書き手だと知らされた。ペンネームのせいもあって、男性と思い込んでいたのだが、この困難な題材に挑んで、なにより、おもしろく一気に読ませる小説に仕上げ、しかも、過去の出来事の記憶を受け取る責任を引き受けようとした作者が、まだ若く将来に大きな可能性を持っていること、そして、同性の書き手だったことが、嬉しかった。この人は、これからどんなものを書くのだろうと期待が湧く。魅力的な新人を世に送り出す仕事の一端を担えたことを、たいへん光栄に思う。なお、思い入れのあるペンネームかもしれないが、デビューするときは一考を促したい。
次に気になったのは、「トランス・ペアレント」だった。父親が出て行ってしまって母と二人暮らしという家庭の、小学校三年生の女の子の視点で進む小説。両親の離婚を受け入れるまでの、小学生の繊細な日常を、丁寧に掬い取っていた。ディテールの書き込みが印象的で、文体などもさりげないようでずいぶん周到に選んでいるのではないかと思った。最初に「ふみ」と「とう」という二人が出てきて、「ふみ」が母親であることは後から明かされる。父親に関しては「父」と書いてあったものが、本人が登場すると「良平」と名前に変わる。読み手は、少しびっくりしながらついて行くことになる。こうした、読み手の知覚の遅れとズレのようなものを、意図的に用意しているのもおもしろかった。「とう」が父親や母親に感情をぶつけるところや、祖母の家で母の娘時代を知って少しずつ母を理解していくところなど、印象的だった。ただ、全体に非常に薄味な印象はある。両親の離婚の理由などは、非常にぼんやりしている。子どもにはぼんやりとしかわからなかった、ということなのだろうが。また、途中で、「ふみ」の日記が登場するが、驚くようなことも書かれていないので、母の日記を盗み読むという行為に娘と母の距離を見ること以外には、意味があまり感じられなかった。意図的に塩分控えめというのはわかるけれども、もう少し、何か、という感じを持った。「楽園」とは逆に、もう少し短くてもよかったのでは。しかし、この書き手の世界を好む読者は少なからずいるだろう。
なんだか可笑しい、というところで評価できたのが、「星と飴玉」。ブラック企業に勤めていて精神安定剤を服用し、昼間からネットカフェで出会い系サイトを通じて人妻にメールを送り、関係を持つ生活をしている中下。この人の自虐は、笑えるところがいい。自分に対してだけではなく、他人に対しても、決めつけが過剰で、それはこの小説の文体の特徴を作っている。三人称ではあるが、基本、一人称的一視点で書かれているから、世界が中下解釈によって歪んでいる印象を受ける。
これは一人称で書いた方が、その歪みがはっきりしてよかったのではないだろうか。中下は、会って数分も経たないうちに、ナナの逞しさと生への執着を見て取るのだけれども、私は少しそこが気になった。非常に苛酷な生い立ちを持つ少女なら、生ではなく死に惹きつけられることもあるのではないか。もちろん、ナナは逞しいキャラクターであるべきなのだが、それを丁寧に読者に気づかせることを省いて、ナナの「生きるため」というセリフと中下の説明だけでよしとしたような荒っぽさを感じた。最初から、ナナは聖母のイメージで描かれて、最後まで変わらない。娼婦は昔から聖母や観音菩薩とイメージづけられるけれども、「ラファエロのマリア」云々は、少し陳腐な印象を与える。これが一人称の記述なら、一目ぼれして世界が歪んでいるという前提(オレの目にはそう見えた)になるので、三人称より違和感がないだろうと私は思う。ラストの、中下の世界の歪みが、ある突発的な事件によって修正されるところはとてもよかった。ためしにちょっと、一人称で書き直してみてはどうだろうか。
最後に、「いつだって溺れるのは」は、首から下に感覚がない、頸髄損傷という障がいを負った女性の、恋愛小説であり、ライフスタイル小説である。
好きな本を通じて知り合った高村という男性との恋を通して、出会いからして介護者と被介護者だった夫と葉子の結婚生活に疑問を持つというのは、ありうることだと思う。婚外恋愛をしつつ、葉子は夫との絆を強くするために子どもが欲しいと願い始めるのだが、矛盾しているように見えて、現在の生活を手放すのを怖いと思う気持ちが描かれていて、説得力があった。夫も小悪人という感じで、いかにもいそうな人だし、妻の死で動揺する高村の弱さも、ありそうなことだなあと思った。しかし、あまり小説的ではないというか、女性誌の読者手記を読んだときのような印象が残った。
小説の文章に対する書き手の意識が、題材に対する意識よりも弱いのではないだろうか。言葉の選択に荒っぽさを感じるところがいくつかあって、それが読後の印象を左右した。頸髄損傷という障がい、あるいは症状に関しては、もっと詳しい書き込みがあったほうがよかったように思った。