1 ヒミツを解き明かす ……「なぜ、くしゃみ?」
(『二十億光年の孤独』谷川俊太郎)
今年の2月の朝日新聞に、詩人の谷川俊太郎さんが、自作の『二十億光年の孤独』を、小学校で授業をしたことが載っていました。その授業で、谷川さんから最初に指された小学六年生の質問は、「二十億光年の孤独に/僕は思わずくしゃみをした」の部分を取り上げて、「なんで、くしゃみしたの?」でした。やはり、誰でも、この詩はこの「くしゃみ」が不思議なんですね。
谷川さんの答えは、「宇宙は大きい。くしゃみは小さい。その対比が面白いと思ったんです。」(2008/2/16朝日新聞「オーサービジット」)。
記事では、この後の応答に触れていませんので、詳しいことはわかりませんが、どうも、この場合の詩人の答えは不親切に見えます。確かに最低限の「解説」だとは思いますが、たとえ「宇宙」と「くしゃみ」の対比が面白いとしても、不思議なのは「なぜ、『くしゃみ』なのか?」ということなのに、それにはまったく答えてはいません。詩人のスタンスからすれば、必要なものはすべて作品な中で表現しているわけですから、それに解説を加えることは、ある意味、詩人にとっての自殺行為にもなります。そういう意味でも、その詩をどう受け取るかは読み手の自由でいい、と詩人は突き放しているのでしょう。
しかし、この質問をした児童は、わかったような、わからないような気分になったことは想像できます。「腑に落ちない」という言葉がありますが、この答えが児童の身体の中にすぽっと収まったように納得したとは思えません。
そして、ここからが、教師の出番です。
私が教室で目指していることのひとつは「作品のヒミツを解き明かす」こと。しかも、それを生徒が、実感として受け止められるようにすることです。
「腑に落ちる」とは変な表現ですが、生徒が抱いた疑問の答えが、単なる解説や説明ではなく、まさに、実感として生徒の身体にすぽっと収まっていく瞬間があります。生徒が何かをひらめいた瞬間の、ふっと明るくなった表情に立ち会った方も多いのではないでしょうか。
この『二十億光年の孤独』の授業では、いつもその表情に出会えるのです。詳しくは「詩」の章で述べますが、「なぜ、詩人は火星人のことを想像する?」「火星人のネリリ、キリリ、ハララって?」「なぜ、火星人も地球に仲間を欲しがる?」という小さなヒミツを教室で話し合っているとき、誰かが声をあげます。
「あっ!うわさ話や。誰かがうわさ話をしているのや!」
この小さな声が(ある時は大きな声)、さざ波のように他の生徒に伝わっていきます。
ここから一気に、「二十億光年」の「孤独」な者たちの距離が縮まりますし、生徒と作品との距離も一気に縮まってきます。生徒が、実感として答えを自分のものとしたとき、授業の大半は終わっているともいえるのです。そして、もう一度、詩を眺め直すといろいろなものが見えてくるという具合です。
これが私の目指す授業のひとつなのです。
この「くしゃみ」に限らず、教科書に載っているどの作品にもヒミツがあります。「なぜ、虎になったの?」(『山月記』)、「なぜ、棒に?」(『棒』)、「なぜ、自死?」(『こころ』)などの小説はもちろん、俳句や短歌、評論でも記号論や身体論に限らず、生徒にとってはヒミツだらけです。このホームページの連載では、私自身がこのヒミツを教室で解き明かしてきたいくつかの実践を載せていきたいと思っています。