2 教材と教材の間に補助線を引く……「なぜ、手榴弾を投げた?」
(『待ち伏せ』ティム・オブライエン/村上春樹訳・『身体、この遠きもの』鷲田清一)
『二十億光年の孤独』の「孤独」とは、いわゆる「実存」に関わる孤独なのでしょうが、この「実存」を理解できないとこの詩の理解も難しいかもしれません。しかし、この詩で得た実存に根ざした孤独の実感は、これからの授業では大いに役に立ちます。近代を読み解くときのキーワードならぬ、キーセンスです。モダンやポストモダンの評論のヒミツに関しても、ただ、単に「実存」の字面だけで理解したつもりでも、実は、その理解は空疎なものなのでしょうが、この感覚があれば、実感として理解できるようになるのです。
つまり詩の教材が、詩だけにとどまらず、評論や小説につながる可能性を持っているということなのです。
教材と教材が個別で、相互の関係が見えない。小説と詩と評論とがばらばらで、つながりが見えない。これも、教科書を面白くないとする理由のひとつです。しかし、本当にそうでしょうか。みんなばらばらなのでしょうか。
教師の仕事のひとつは、詩と評論、評論と評論相互の関連を意識した授業、教材と教材の間に補助線を引き、ばらばらに見えた教材が見えないところでつながっていることを示しながら、教材のヒミツを解き明かし、作品理解を深めていくことだと思います。
『待ち伏せ』(ティム・オブライエン)という村上春樹が訳した小説を取り上げた時、この小説の「(投げるつもりはなかったのに)なぜ、手榴弾を投げてしまった?」というヒミツについて、生徒の多くが、「身体が意識とは別に意志を持っているから」「身体の意志」と答えました。それは、その前に、『身体、この遠きもの』(鷲田清一)を授業で取り上げていたからです。評論で心身問題・身体論を取り上げ、小説でそのことについて考えれば、実感として理解し、定着できる、というねらいが比較的うまく実現できたように思います。
よく、脳科学者の茂木健一郎氏が、分断化された現代の知に補助線を引き、世界の全体性を引き受けることの重要性について述べられています。
国語においても、詩・小説・評論は、もちろん、古文・漢文、文法、受験学習等と分断化されている現状を考えると、それらに補助線を引き、大きな視点での授業のあり方が、今、求められているのではないかと思います。
このホームページでは、シラバスについても述べていくつもりですが、常に教材と教材とに補助線を引き、生徒にどのような力をつけていくのかという授業の組み立て方についても言及していきたいと思っています。