浪速のスーパーティーチャー守本の授業実践例

第三章 俳句

夏三句

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c 子を殴ちしながき一瞬天の蟬  秋元不死男

①「ながき一瞬」――実感から表現へ

 「ながき一瞬」という矛盾した表現(これも「対比」です)が、この句のヒミツです。誰にも「一瞬」がとても長く感じられるような経験はあります。この句は、読む者にそのような経験を思い起こさせてくれます。しかし、いざこのような感覚を自分の言葉で説明しようとすると簡単なことではありません。なぜ「一瞬」が長いのでしょう。「一瞬が長く続いたから」という発想では説明がつきません。それでは「一瞬」ではないからです。生徒は思っていることが十分に表現できずに思い悩みます。これが「表現」の一歩なのです。そしてこの句のヒミツは、この表現にあるのです。

 句に寄り添って考えましょう。これは父親が子どもに手を挙げた瞬間です。子どもへの愛情によるものなのでしょうが、感情的になって子どもに手を挙げてしまって、頭が真っ白になった瞬間なのです。「しまった、やってしまった。」という思いでいっぱいになり、思考停止に陥った瞬間を、まるで時間が停止してしまったように感じているのです。瞬間が長いというより、その瞬間に時間が停止したということなのでしょうが、その心理的な時間を、対比的に「ながき一瞬」と表現しているのです。説明より先に実感として伝わる力のある印象的な表現ですね。自分の表現に思い悩んだ末、このような表現に出会ったとき、生徒は言葉の奥行きの深さを改めて思い知り、自らの表現の幅を広げる契機となり得るのです。

②「天の蟬」――二物衝撃

 草田男などの人間探求派は、伝統的な季語に寄りかかり花鳥風月を詠むだけにとどまらず、「二物衝撃」という作句法を追求しました。前述した「取り合わせ」なのですが、「切れ」を活かして二つのものを対比させ、そこから生まれる従来の季語にはない象徴的な意味を主題と関係づけ、俳句の世界を広げようという試みなのです。

 不死男は人間探求派ではありませんが、この句もまた二物衝撃法に基づいています。「蟬」については、従来の季語の背景からは「天」というニュアンスは感じられません。「天の蟬」は「子を殴ちしながき一瞬」と対比されて初めて感得されるものなのです。したがって、「ながき一瞬」の後の「切れ」は、時間が停止した瞬間という意味でも、二物の間に衝撃を与えるという意味でも非常に効果的だといえます。

 ではなぜ「天の蟬」なのでしょうか。

 「子を殴ちしながき一瞬」は、思わず子どもに手を挙げてしまったときの後悔、自責の念、思考停止の瞬間です。感情は高ぶってはいるのですが、そういう自分を冷静に見ている自分がいる。それまでは大声で言い争っていたかもしれませんね。殴った時の音を境に訪れる静寂。蟬の鳴き声は、この静寂とも対比されています。思考停止した長い静寂の空間に、頭に響き渡るのが蟬の鳴き声なのです。自分の非を知っているのは自分だけです。その自分を責めるかのように鳴く蟬は「天」からのもののようだと感じているのです。「天」と「自分(人間)」が対比されているわけです。殴った親も殴られた子どもも動こうにも動けない時間が止まった夏の日、ただ鳴り響く蟬の声をともなってその情景が鮮やかに浮かんできます。

 この句は教室では人気のある句です。「ながき一瞬」や「天の蟬」という表現は生徒の実感に寄り添いやすく、わかりやすいからです。そういう意味では二物衝撃といいながらも少し説明的な句でもあるといえます。教材のヒミツを考えるのが私の授業スタイルでもありますから、例えば「子を殴ちしながき一瞬蟬の声」ぐらいで、「子を殴ちし一瞬」と「蟬の声」の二物衝撃から、蟬の声を天からのものだということを生徒に発見させたいと思ってしまいます。芭蕉に「謂ひおほせて何かある。」(去来抄)という言葉がありますが、言い尽くさない表現の背後にあるものが一つのヒミツとなり得るわけですから、この句は「天」という断定に作者の心情が出過ぎて入るようにも私には見えてしまいます。まあそれも自分の授業スタイルに引きつけすぎた、無い物ねだりなのかもしれません。

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