第四章 評論評論について
参考書などには、「評論文は論理の積み重ねによって筆者の主張を表現しているので、小説や詩歌の読み解きに必要な心情や感性とは無縁のものであり、むしろ、心情や感性などに引きずられて読み進めると誤読しかねない。評論文理解にとって、心情・感性は害であり、排除すべし。」などと記されています。塾や予備校の影響も大きいのでしょうが、このような評論文理解が喧伝されている中で、生徒は評論文について大きな思い込みがあります。 ① 予備校式評論読解法――受験生の幻想塾や予備校などでは、「本文を理解していなくても、『傍線読み解き法』で評論問題の答えは出せる。」と豪語する講師もいます。評論文を小論文と同一視して、小論文作成の技術としての修辞や構成などから筆者の意図を把握したり、接続詞や頻出語などの「キーワード」に傍線(アンダーライン)を引き、それに補助線を引いたりすれば評論は読み解けるというものです。 受験期の生徒などは、地獄に仏というわけで、その法則に傾倒していきます。生徒の問題用紙を見ると、線だらけで本文が見にくくなっているものがあるぐらいです。確かに、構成や修辞に注意を向けることも重要です。また、本文を理解していなくても解答ができるという問題も実際あるのでしょう。論理の積み重ねですから、その論理を示す「キーワード」に線を引き、その論理の構成を把握して、結論を類推して、そのあたりをまとめていけば済むのかもしれません。 しかしながら、予備校でも「近代論」や「ポストモダン」等のキーワードをはじめとして、様々な基礎知識の習得を必須としているところが多く、実際は修辞や傍線だけで現代文評論が攻略できるとは思ってはいないことは明瞭です。学校では教えない現代文必勝法として、それらを塾や予備校が宣伝材料としたことで、その影響を受けた受験生たちに、「評論傍線・線引読解法」、あるいは「本文汚し読解法」が広く信じられるようになってきたのです。 実のところは、塾や予備校では、自分たちの「線引き法則」に合致したテキストを扱い、まるでマジックのように本文を読み解き、その効能をプロパガンダしているという場合が多いのです。その結果、生徒が他の本文にそれを当てはめようとしても当てはまらず、悪戦苦闘するということが起こっています。 受験勉強というのは、生徒が自らの読解力を高めるという点では絶好の契機です。実際、受験勉強で読書の楽しみを知ったという生徒も少なくありません。その機会に、抜け道にも近道にもならない幻想を生徒に持たせる罪の重さは計り知れません。 私も評論の記述式問題について指導することが多いのですが、解答が記されているあたりの語句を適当にまとめている答案に、私は点を与えません。「自分はこの文をこう読みました。」「こう理解しました。」とはっきり記述している答案にしか点は与えられないのです。理解できているかどうかが大事なわけですから、本文をこね回して良しとしている答案は、評価に値しないのです。大学入試の個別試験(二次試験)ともなれば、採点者は大学教授が中心なのでしょうから専門家です。この受験生がこの文を理解して答案を書いているのかどうかは、一目瞭然です。要は、「わかったのか。」「わからなかったのか。」が重要なのです。
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