宮崎哲弥
( みやざき・てつや )1962年生まれ。評論家。慶應義塾大学文学部社会学科卒業。研究開発コンサルティング会社「アルターブレイン」副代表。京都産業大学客員教授。コミュニタリアン、仏教徒。福岡県久留米市出身。著書多数。仏教関連では『さみしさサヨナラ会議』(小池龍之助との対談、角川文庫)、『仏教教理問答』(サンガ文庫)、『知的唯仏論』(呉知英との対談、新潮文庫)、『ごまかさない仏教』(佐々木閑との対談、新潮社)など。
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二千五百年もの歴史をもつ仏教。その始点にして中核と言い得るのが、「縁起」なる法則だ。だが、「これが縁起だ」という定説は、仏教全体としてはいまだ存在していない。本書は、和辻哲郎、三枝充悳といった第一級の知識人、仏教学者が縁起をめぐり繰り広げた論争を俎上に載せ、なぜ彼らが虚構を実体視する罠に陥ったのかを検証。縁起とは何であり、仏教とは何であるかを、透徹した思考で浮かび上がらせた、類例なき書。
第1章 縁起という迷宮(仏教の始点
普遍性の強調―初期仏教の縁起観 ほか)
第2章 皮相な論争理解―第一次縁起論争の解剖(上)(和辻哲郎の参戦
偏見のヴェール ほか)
第3章 真の対立点へ―第一次縁起論争の解剖(下)(宇井の木村説批判
論じ返す木村泰賢 ほか)
第4章 仏教学者たちの戦い―第二次縁起論争の深層(論争を主導した三枝充悳
計四九本の論争文 ほか)
第5章 生命主義とポストモダン―仏教の日本近代とその後(仏教は生命讃美の教えにあらず
初期仏教の生命観 ほか)
ちくま新書『仏教論争 ―「縁起」から本質を問う』(宮崎哲弥著)に誤りがありましたので、下記の通り訂正いたします。
10ページ・終わりから2行目
(誤)「生起したもの」
(正)「生起するもの」
11ページ・前から1行目
(誤)「依存して生起したもの」
(正)「依存して生起するもの」
11ページ・前から6行目
(誤)「依存して生起したもの」
(正)「依存して生起するもの」
<説明>
多くの概説書や辞書、事典類に示されている縁起の一般的語義は「依存して生起すること」「縁って生じること」である。この「こと」というのは、通常、現象が起こる道理、原理、仕組み、機制など抽象名詞としての意味を表すと考えられている。初期仏教や大乗仏教における縁起の定義は、ほぼこの「こと」を指す。
だがアビダルマ仏教においては、「こと」、つまり「現象が起こってくる原理」ではなく、「もの」、つまり諸存在(諸法)を示す縁起の用例が拡がった。しかも「依存して生起するもの」という因や縁を表すばかりでなく、「依存して生じたもの」という結果をも縁起という語で表すようになる。
こうした定義の変遷を踏まえ、その語義の「幅」を示すため、「縁って生起すること」に「縁って生じたもの」を付加した。これは前著『ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す』(新潮選書)の説明を踏襲したものだ。
然るに本書では、他のページで「縁已生法(pratItya-samutpanna dhArma)」「縁已生(paTiccasamppannA)」という概念を紹介している。これは本文(p.194 )でも述べている通り「縁によって生じた事象」、正確にいえば「縁によって生じさせられた存在」であり、要は「縁起の結果」を指す。確かにアビダルマ仏教では「縁已生(法)」の意で縁起の語が用いられることがあったが、このまま詳説なく放置すれば、読者の混乱を招きかねないと判断し、現状の「生起したもの」「依存して生起したもの」を、「生起するもの」「依存して生起するもの」と訂正することにした。(宮崎哲弥)
43ページ・後ろから4行目
(誤)五支、八支、九支、十支、そして十二支
(正)五支、六支、八支、九支、十支、そして十二支
104ページ・後ろから8行目
(誤)第四次元
(正)「第四階」
105ページ・後ろから7行目
(誤)第四次元(“the fourth dimension”)
(正)「第四階(“the fourth dimension”)」=第四次元
258ページ・前から7行目
(誤)鈴木氏
(正)鈴木
275ページ・前から4~5行目
(誤)仏教以前のウパニシャッド
(正)仏教以前のブラーフマナ文献
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