1944年、小松真一(1911生)という台湾製糖㈱の醸造技術者(酒精工場長)が軍属としてブタノール生産のためにフィリピンに派遣された。
軍部の生産要請に応えようと知恵を出し、汗をかき、熱意に燃えて工場建設と工場運営に邁進するも、戦線は次々米軍との戦いに敗れ、部隊とともに山中に逃げ込んだ。逃げ回っている間と、捕虜になってのからの体験を彼は密かに日記に書いた。そしてそれを戦友の骨壷に隠して帰国した。しかし、1973年に脳溢血で逝去するまで、その日記のことは家族の誰も知らなかった。
この本は小松さんの死後、家族が日記の存在に気付き、私家版として小松さんの友人・知人に配ったものが原型になっている本だ。
◎まだ読んでいる最中ですが、この強靭な神経と体力を持つ日本男児の技術者が、発表するつもりなく記した体験の積み重ねの重さに、言葉がありません。
被爆者も空襲被害者も、あまりにつらい体験は自ら胸の奥底に押しこんで、人に語ることが最近までなかったと聞きます。
おそらくフィリピンの山野で地獄を見た小松さんも、この日記を書くことで吾が体験に蓋をし、そのことで日常の社会生活に復帰されたような気がします。つまり自分が過ごしたフィリピンでの時空間を家族にも話す気は毛頭なかったようです。
それにしても、偶然の巡り合わせで何度も命拾いをしている小松さん。まるでこの文章を書いて後世の日本人に残すために、天がその命を預ってくれたような気さえする強運の持ち主でもあります。
冷静沈着な人が戦争体験を書いたノンフィクションの凄さを感じる本でもあり、筆者の正直な人柄がモロに出ていてページを繰るのが待ち遠しい面白さを持つ本でもあります。
戦争という非常時に現れる日本人の体質と行動を、ここまで冷静に書けた技術屋がいたというそのことを知った喜びと、いまも我々の本質は変わっていないと思うつらさと両面を感じています。
小松さんは、技術屋だった亡父と同年生まれで、父が亡くなった翌年に逝去されており、他人事ではない思いで読んでいます。
この本を読むと、今も昔も、兵下士官とそれ以下のシャバの日本人1人1人の命の安さはホンマに「どうよ」と思ってしまいます。
軍部の生産要請に応えようと知恵を出し、汗をかき、熱意に燃えて工場建設と工場運営に邁進するも、戦線は次々米軍との戦いに敗れ、部隊とともに山中に逃げ込んだ。逃げ回っている間と、捕虜になってのからの体験を彼は密かに日記に書いた。そしてそれを戦友の骨壷に隠して帰国した。しかし、1973年に脳溢血で逝去するまで、その日記のことは家族の誰も知らなかった。
この本は小松さんの死後、家族が日記の存在に気付き、私家版として小松さんの友人・知人に配ったものが原型になっている本だ。
◎まだ読んでいる最中ですが、この強靭な神経と体力を持つ日本男児の技術者が、発表するつもりなく記した体験の積み重ねの重さに、言葉がありません。
被爆者も空襲被害者も、あまりにつらい体験は自ら胸の奥底に押しこんで、人に語ることが最近までなかったと聞きます。
おそらくフィリピンの山野で地獄を見た小松さんも、この日記を書くことで吾が体験に蓋をし、そのことで日常の社会生活に復帰されたような気がします。つまり自分が過ごしたフィリピンでの時空間を家族にも話す気は毛頭なかったようです。
それにしても、偶然の巡り合わせで何度も命拾いをしている小松さん。まるでこの文章を書いて後世の日本人に残すために、天がその命を預ってくれたような気さえする強運の持ち主でもあります。
冷静沈着な人が戦争体験を書いたノンフィクションの凄さを感じる本でもあり、筆者の正直な人柄がモロに出ていてページを繰るのが待ち遠しい面白さを持つ本でもあります。
戦争という非常時に現れる日本人の体質と行動を、ここまで冷静に書けた技術屋がいたというそのことを知った喜びと、いまも我々の本質は変わっていないと思うつらさと両面を感じています。
小松さんは、技術屋だった亡父と同年生まれで、父が亡くなった翌年に逝去されており、他人事ではない思いで読んでいます。
この本を読むと、今も昔も、兵下士官とそれ以下のシャバの日本人1人1人の命の安さはホンマに「どうよ」と思ってしまいます。