太宰治と筑摩書房
昭和二十三年六月十四日朝の五時頃に上野駅に着いた竹之内は、そこから本郷台町の筑摩書房へ直行した。勝手を知っている竹之内は、戸締りを勝手にあけて、中へはいりこみ、古田晁の出社を待っていた。七時過ぎ、電話がかかってきた。
竹之内が出てみると、「太宰治が昨夜、玉川上水に飛び込んだ。誰かすぐ来てくれ。」と言う。
(『筑摩書房の三十年』より)
※古田晁=筑摩書房創業者。竹之内静雄=古田晁の右腕の編集者。後に二代目筑摩書房社長。
太宰治は昭和23年6月13日深夜、玉川上水で入水自殺しました。連日の土砂降りの中、捜索が続けられましたが、19日に遺体が発見されました。奇しくも太宰治39回目の誕生日であり、筑摩書房の8回目の創立記念日の翌日でもありました。
太宰治と筑摩書房創業者の古田晃の間には、深い親交がありました。昭和16年8月には、太宰治の短編集『千代女』が筑摩書房から刊行されています。これは筑摩書房が創業した翌年のこと。筑摩書房が出版した、17冊目の本でした。
その後も昭和20年に『お伽草紙』刊行、昭和21年には「展望」6月号に戯曲「冬の花火」掲載、昭和22年の「展望」3月号に「ヴィヨンの妻」掲載、昭和22年8月『ヴィヨンの妻』刊行と続きました。またその頃、太宰の働きかけで『井伏鱒二選集』が企画され、太宰はその編纂にも関わっていました。酔って筑摩書房の社屋に担ぎ込まれた太宰が、翌朝そのまま社内にいて、上機嫌な様子で若い編集者相手に『井伏鱒二選集』のあとがきを口述していた、というエピソードが伝わっています。古田が太宰に執筆のための宿を世話することもしばしばであったようです。
昭和23年、太宰は「展望」6月号から「人間失格」を連載していました。「人間失格」は8月号で完結しましたが、その掲載を見ずに太宰は入水したことになります。
太宰治と古田晁は、互いに心の奥深いところでふれあうことがあったらしい。 ふたりは照れ屋だから、口に出しては言わなかったろうが、精神的に双生児のような結びつきがあったようである。
自殺の当夜、太宰治は大宮へ古田晁をたずねて行き、古田が信州へ行って留守のため、そのまま帰り、夜半をすぎて投身したという話を、その頃、竹之内は人から聞いた。
(同上)
単行本『人間失格』は、その年の7月に刊行され、20万部のベストセラーとなりました。
筑摩書房は、昭和30年(1955年)以来、11次にわたって『太宰治全集』を刊行しています(文庫版を含む)。11種類の全集の累計部数は、160万部を超えます。今も太宰治が書き残したことばを、小説からアフォリズムにいたるまで、『文庫版 太宰治全集』全10巻で読むことができます。