第一章 詩詩について
詩は、面白そうだけれど難しい、と生徒も教師も敬遠しがちです。小説が、具体的な出来事とそれにまつわる心情を積み重ねて、人生や人間の本質に迫っていくの対して、詩は、人間や人生について、ずばっと切り込んで、具体を捨象し、本質のみを表現しているように見えます。したがって、抽象的でイメージがつかみにくく、実感も得難く、その結果が、詩は難しいということになるのでしょう。イメージがつかめなければヒミツどころではありません。 では、詩は具体から遠いところにあるのかといえば、そうともいえません。詩人の発想や、想像の元は、具体的な対象の凝視から始まることが多いのです。 詩ではありませんが、「人間は管(くだ)より成れる日短(ひみじか)」(川崎展宏)という句では、「人間は管より成れる」ということについて、何も説明がありません。俳人は、自らの体験の中で、自分自身が管の集まりであることを実感したのでしょう。ただ、その実感だけを表現しているのです。その体験が何かは、読み手にはわかりません。 こうなると、読み手が、その実感にふさわしい自らの体験を自らの中に掘り起こす必要があります。私なら、すぐに循環器にまつわることが浮かびます(高血圧傾向ですから)。ひょっとしたら作者の実感は消化器系にまつわるもので、循環器ではないかもしれません。生徒なら、マラソン大会で息が苦しくなってあえいだことや、部活動で汗を流したことを思い出すかもしれません。根ざす具体は違っても、同じような実感は持てるのです。読み手の具体と作者の具体が、実感を通して結ばれていくのです。大げさに言えば、教室の40人の生徒の具体と作者の具体とが、実感を通して結ばれていくのです。いい詩ほど、豊かなイメージや具体を読み手にもたらすものです。このダイナミズムが詩の授業の魅力のひとつです。 しかし、厳密に言えば、作者の実感と生徒の実感は微妙に違っています。老いを迎える者と成長期の若者とが、身体に関して同じ実感を持つべくもありません。
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