第一章 詩1 「木」 田村隆一
② 補助線を引く――生活作法武満徹の音楽劇に、『マイ・ウェイ・オブ・ライフ』という作品があります。これは田村隆一のエッセイ、「私の生活作法」をテキストとしています。そして、その書き出しは 生活作法ということを聞いてぼくはびっくりした。猫には猫の生活作法があり、犬には犬の生活作法があるだろう。そこでぼくはこんな詩をかいてみた。とあり、続いてこの詩になります。エッセイの中に詩が挿入されているのです。 「生活様式(ライフ・スタイル)」と「生活作法」は、似てはいますが少し違います。「ライフ・スタイル」の方は、自分の生き方にこだわった感じがします。極端に言えば、他人はどうであれ、自分流の生き方を通すという感じです。 しかし「生活作法」となると、マナーやエチケットまで含むような、周囲との関係性に目を向けています。このあたりのニュアンスが生徒にはわかりにくいようです。 この詩は、やはり人間の生活作法と木の生活作法の違いがテーマなのでしょう。そして、詩人は人間の生活作法を嫌悪しているのです。 人間は自分勝手に、はたの迷惑も顧みず、話かけたり、相談を持ちかけたり、せわしなく走り回ったり、思い込みで愛とか正義とかをわめきちらしたりします。他者への配慮より、自己主張が中心です。不作法というか、無礼な存在です。心ない人の言動で自分が傷ついたこともあるでしょうし、逆に無意識であれ、自分の不用意な発言で人を傷つけたこともあるでしょう。社会で生きるとはそういうことで、人と交われば、どうしてもいらぬ自己表現をせざるを得ず、そのあげく自己嫌悪に陥ることもたびたびです。人間はなかなか面倒くさい存在で、それを嫌悪し、自分を含めて人間嫌いになっていくのもわからなくはありません。 さて、この詩の本領はここからです。 ほんとうにそうか 詩人は、木を見直します。単に人間の煩わしい面がないから好きだといったけれど、木はただそれだけの存在なのか、と問い直し、じっくりと見直しを始めるのです。そうすれば、いろいろなところが見えてきます。「じっくり」という感じが、繰り返しに表れています。 木は囁いているのだ ゆったりと静かな声で ここで詩人は、木が狭い世界で生きる落ち着きのない人間の単なる影ではなく、大地に根ざし、悠々と、木そのものとして生きていることに気付きます。そして、その木を見ながら、木の生活作法について考え始めるのです。 木はたしかにわめかないが 狭量で自分勝手、それ故に愛を叫ぶ人間とは違い、木には包容力があります。人間は他者から奪うだけで無礼そのものですが、木は、自然の摂理そのものです。こういう発見は、人間にしか目を向けられず、その世界に屈託している者にとっては新鮮な驚きです。ここでも重要なことは、「生き方」ではなく、「生活作法」となのです。他者との関係性において、木はすばらしいということなのです。 自分の周囲に、こちらの都合も考えずに鳥が勝手に寄ってきたら、人間にとっては煩わしいことこの上ないでしょうが、木は受け入れています。だから、何も言わなくても鳥が寄ってくるのです。たとえ、愛や正義を叫んで、そこに寄ってくる者がいたとしても、それらは胡散臭くて、ろくなものではありません。 環境問題でいえば、人間の作法は最悪で、木の足下にも及びませんね。自然から奪うだけです。無礼を通り越して犯罪です。しかし、木は自然から受け取ったものを自然に返します。しかも、人間のエコ生活といえば、現代風なニュアンスもありますが、何かしら惨めったらしい、せこい印象もあります。でも、木は違います。堂々として、空と大地と対話するがごとく親和的で、悠々としています。鳥と大地と空との関係性において、木の作法は申し分ありません。 というわけで、ここで詩人は人間には到底及びもつかない、木の生活作法のすばらしさに気づきます。でも、木の作法のすばらしさはこれだけではありません。
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