第四章 評論3 「水の東西」山崎正和
②何を対比?――東西の「水」この評論の面白さは、東西の水の対比にあります。その対比の関係を「かたちなき水」を押さえながら見ていきます。対比は3点あります。
a 流れる水(東)――噴き上げる水(西) bは「時空の対比」、cは「可視・不可視の対比」です。aは、一見するとその対比は気付きにくいのですが、噴水は「下から上」に噴き上がることがわかれば、流れる水は「上から下」となります。自然に流れる水と人工的に噴き上げられた水、つまり〈自然――人工〉という対比です。そして、その自然に流れる水は時間を感じさせますが、人工の対象としての水は、造形物として空間に固定されます。つまり、bは〈流れ――固定〉です。次に、人工で空間に固定された水は、そのかたちがはっきりと見えるのですが、自然の流れる水は、たとえ時間を表してはいても、かたちは固定されていません。変化をし続けます。要するに、形がないのです。cの対比は〈変化――固定〉であり、〈かたちがない水――かたちがある水〉ということです。そして、「見える」「見えない」に注目すれば、〈かたちが見えない水――かたちが見える水〉という対比になるのです。 こう見ていくと、この東西の対比は、自然や時間の流れにやすらぎを求める東洋と、「自然」に対峙した「人工」(人為)に価値を置く西洋という関係になります。それは、「人間=理性」による自然支配という西洋近代の流れとも合致しています。 ここで、授業を終えている教室もあるのかもしれませんが、ここからがこの教材の授業の重要なところなのです。 「かたちなきものを恐れない心とは?」というヒミツに戻ります。 この「かたちなきもの」とは、三つの対比で見たように「かたちが定まっていないもの」のことを指しますから、「かたちなきものを恐れない心」は「かたちが定まらず、固定されていないものを恐れない心」となります。では、「かたちが定まっていない」とはどういうことなのでしょうか。 先に引用した筆者のいう「行雲流水」とは、確かに風に流されるあてどない雲と、流れるままの水のように、自然に身をまかせて行動・生活することを意味するのでしょうが、もう一つの意味があります。「雲」も「水」も流れていくもので、一定のかたちなどなく、常に変化すること、つまり「無常」を表しているという意味です。つまり「かたちなきもの」としての「雲」や「水」に「無常」を見てとっているのです。そう考えると、「かたちなきものを恐れない心」とは「無常」を恐れない心と言い換えることができます。そして、それが日本人独特の感性ということなのです。 「行雲流水」の思想の裏付けを「積極的に、かたちなきものを恐れない心」だとする筆者は、自然の中に「無常」を見て取り、なおかつそこに身をまかせて良しとする日本人の姿勢を「積極的」としています。一見すれば、人生に対して受動的で投げやりに思える「行雲流水」の思想に、積極性を見いだしているのです。 ここで補助線です。
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