浪速のスーパーティーチャー守本の授業実践例

第四章 評論

2 「異文化としての子ども」 本田和子

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 近代において発見されたものに「子ども」があります。理性的で秩序を重んじる「大人」に対する概念で、感情的で無秩序な「前大人」、大人に成長する前段階としての子どもという見方です。それに対してこの評論では、「子ども」を「未熟な大人」として捉えるのではなく、子どもの世界に、大人の世界とは異なる独自の思考や文化を認めています。また、当然その視点は「大人」の世界を見つめ直すことにもつながってくるわけですから、この評論も近代批判の文ということになります。

①何に魅された?――子どもと大人の感覚

 一概には言えませんが、高校生は「子ども」か「大人」かといえば「大人」に近いのでしょう。しかし、時には驚くほど幼い面を見せてくれます。ある時の昼休みの中庭では、何人もの生徒がまるで小学生のように芝生でころがりながらふざけ合っているのをみかけたりします。感情面や趣味嗜好の面でも、まだまだ子どもという高校生は結構いますね。大人になる前のこの時期に、子どもの世界を考えることは、その世界を実感として捉えやすいともいえます。授業では、子ども特有の感覚や発想を積極的に取り上げ、生徒自身の中の「子ども」に呼びかけるようにしました。

 子どもの感覚と大人の感覚が異なるという例を本文で挙げています。

 幼児の遊びを観察していた大学生が、自身の記録を読み返して首を傾けた。心を動かされ、おもしろさにわくわくしながら記録したはずなのに、改めて読み直すと、あまりにも統一を欠き、意味不明である、と。
 例えば、砂場で山を築いていた男児の一人が、突然、木の板をたたき始める。と、もう一人も、一緒になって木の板をたたきながら、「雨だ、雨だ。」先の子どもも声をそろえて、「雨だ、雨だ。」二人は板を打ち鳴らしながら、「雨だ、雨だ。」とあたりを駆け回る。こんな経過が熱中した筆づかいで記録されているのだが、このとき、観察者である自分は何に魅され、何を了解したというのだろうか。

 筆者は答えを明記していませんが、この「観察者である自分は何に魅され、何を了解したというのだろうか。」が、この評論のヒミツです。観察者も昔は子どもだったのですから、観察中は子ども時代の感覚が蘇って、子どもに同調していたのですが、その時が過ぎてしまうと、その感覚が戻らず、またその感覚を説明できる言葉もありません。ただ奇妙さが残るばかりです。

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