第四章 評論3 「水の東西」山崎正和
「水の東西」とは少しひねった題です。西洋と東洋でも同じであることを「洋の東西を問わず」といいますが、ここではそれをもじって、「洋(海)」ではなく、「水」の場合は東西で異なると洒落ているのです。この洒落方でもわかるように、この評論は極めて随筆に近いものです。確かに東西の対比を図式的に表現していますが、それでいてその対比が生まれた背景には深く立ち入りませんし、馴染みにくい評論文特有の術語(テクニカル・ターム)も見られません。それゆえ、高校1年生における評論の入門には適しているということで定番教材となっているわけです。 しかしそこに落とし穴があるのです。論旨が明快でわかりやすいという評論は、面白味にかける傾向があります。逆に、興味をひいて面白い随筆的な評論は、論旨が明快というわけにはいきません。面白さが中心であり、論理性に力点を置いていないのですから、授業ではその面白さに論理性を与えることが重要になってくるわけです。この評論にもその傾向があります。一見、明確な対比の分析や構成の説明で満足してこと足れり、とするだけでは筆者の「面白さ」の背景にはたどり着けないのです。 ①かたちなきものを恐れない心?――表現に寄り添う東西の水の対比をまとめ、結論とした箇所です。 いうまでもなく、水にはそれじたいとして定まったかたちはない。そうして、かたちがないということについて、おそらく日本人は西洋人とちがった独特の好みを持っていたのである。「行雲流水」という仏教的なことばがあるが、そういう思想はむしろ思想以前の感性によって裏づけられていた。それは外界にたいする受動的な態度というよりは、積極的に、かたちなきものを恐れない心の現れではなかっただろうか。 この評論のヒミツは「かたちなきものを恐れない心」です。文章的に見ればこの心は「かたちがないということに対する日本人の独特の好み」であり、「『行雲流水』という思想の裏づけとなった感性」を指していることまでは理解できるのですが、その内容となるとわかりにくくなります。 「かたちなきもの」とは、具体的には「水」を指します。しかし、本文には水の仕掛けである「鹿おどし」に、「愛嬌」と「人生のけだるさ」や、「水の流れ」と「時間の流れ」を感じ、日本人はそこにくつろぎ求めるとはありますが、それは「かたちなきもの」に対する感性とは少し異なります。「流れる水」から「かたちなき水」にいくまでには少し飛躍があり、それがこの文を難しくしているのです。授業ではその飛躍したところを埋めていくわけです。
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