文章に即して古典を読む
『徒然草』「丹波に出雲といふ所あり」(二百三十六段)
●上人はなぜ狛犬にこだわったのか聖海上人一行は、「しだのなにがし」に誘われて、丹波の出雲神社に参詣する。出雲大社を勧請して建てられた、すなわち出雲大社の分社である。出雲大社は、十月には日本国中の神様が出雲に集まるという言い伝えをもつ、日本でも有数の古い神社である。しかしながら出雲は都からは遠く、だれもが気軽に出雲大社に参詣に行くことは難しかったであろう。だからこそ丹波に勧請し、都人が参拝しやすいようにしたのでもあろう。古くからの神社であり、だれもがその名前は知っていても、参拝したことがない神社、それが出雲大社であった。そして一行の期待にたがわぬ立派さであったのだろう。「おのおの拝みて、ゆゆしく信おこしたり」(『精選国語総合 古典編 改訂版』52頁4行目/『国語総合 改訂版』260頁4行目)と、大いに信仰心を起こしたのである。さすがに出雲大社を勧請しただけのことはある、立派なことだ。人々はそんな思いをもったのであろう。 参拝を終えた聖海上人は「御前なる獅子・狛犬、背きて、後ろさまに立」(『精選国語総合 古典編 改訂版』52頁5行目/『国語総合 改訂版』260頁5行目)っているのを見て、「いみじく感じ」る。「あなめでたや。この獅子の立ちやう、いとめづらし。深きゆゑあらむ。」(『精選国語総合 古典編 改訂版』52頁6行目/『国語総合 改訂版』260頁7行目)と、上人は涙ぐむ。 上人は、ここで、なぜ狛犬の向きにこだわったのだろうか。 出雲神社は、前述したごとく出雲大社の分社である。出雲大社は天皇家の系列とは異なる神をまつる神社である。都の人々にとって、出雲神社は伊勢神宮とは別の系列の神社であった。とすれば出雲大社には他と異なる習慣ややり方があるかもしれない、そのように聖海上人が考えることもあながち無理なことではないだろう。 さらにここで気になるのは、上人の狛犬へのこだわりである。狛犬の向きが互いに向き合うものであるという知識をしっかりと持っているからこそ、狛犬の向きが違っていることにこだわることができるのである。狛犬についての知識をたいして持たないものは、神社への参拝の折にそれらが向き合って並んでいることくらいは意識したとしても、その意味を深く考えるわけでもないし、並び方が少々変わっていたとしてもさして気にも留めないであろう。ここで聖海上人は「この獅子の立ちやう、いとめづらし。深きゆゑあらむ。」とその向き合い方にこだわり、一行の者たちに「いかに殿ばら、殊勝のことは御覧じとがめずや。無下なり。」(『精選国語総合 古典編 改訂版』52頁8行目/『国語総合 改訂版』260頁9行目)と告げている。上人が、これほどに狛犬にこだわるということは、こだわるだけの狛犬についての知識を上人が持っていたということである。人はさほど知りもしないことに、さしてこだわったりはしない。聖海上人がどのような人物であったかは、今に伝わっていない。しかし、いやしくも「上人」と呼ばれる人物である。ものを知らない、愚かな者とはいえないだろう。むしろ人並み以上にものを知っている人物と考えるべきであろう。
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