文章に即して古典を読む
『徒然草』「丹波に出雲といふ所あり」(二百三十六段)
「狛犬」と「かいもちひ」への疑問この話で一つ疑問なことがある。狛犬は、子どもたちの力で簡単に動かせるようなものだったのだろうか。 「おとなしくもの知りぬべき顔したる神官」(『精選国語総合 古典編 改訂版』52頁12行目/『国語総合 改訂版』261頁1行目)は、上人の問いに「そのことに候ふ。さがなき童べどものつかまつりける、奇怪に候ふことなり。」(『精選国語総合 古典編 改訂版』53頁3行目/『国語総合 改訂版』261頁4行目)と答え、「さし寄りて、すゑ直して往」ってしまったという。狛犬は、大人一人の力で簡単に動かせるものであったのか。「さがなき童べどものつかまつりける」というとき、子どもたちのいたずらはこれが初めてではなく、何度もなされたもののようである。狛犬は台座に固定されてはいなかったことになる。そして少なくとも子どもが何人かで(そして大人の力でも容易に)動かせるくらいのものであったということになる。 「しだのなにがしとかやしる所なれば、秋のころ、聖海上人、そのほかも、人あまた誘ひて」(『精選国語総合 古典編 改訂版』52頁1行目/『国語総合 改訂版』260頁1行目)出雲神社へ拝みに誘うからには、それなりの神社であったと思われる。その神社の狛犬が子供の力でも容易に動かせるものであったとすれば、あまりにも神社の規模が小さいものではなかったかとも思われてしまうのである。それとも、この話の狛犬にはまったく異なる意味が隠されてでもいるのだろうか。 今のところ、この疑問に対する解答を私は持てないでいる。ただ、古典を読む場合、このような素朴な疑問を大切にしたいと思うのである。答えがわからないからというだけで、疑問をはねつけるのではなく、そこで抱く疑問は疑問としてきちんと持つことを大事にすべきではないかと考える。 本文中に出てくる「かいもちひ」は、教科書では通常「ぼた餅」と説明される。しかし、「いざ、たまへ、出雲拝みに。かいもちひ召させむ。」(『精選国語総合 古典編 改訂版』52頁3行目/『国語総合 改訂版』260頁3行目)という文脈の中での「かいもちひ」は、「ぼた餅」ではどうにもおさまりが悪い。「ぼた餅」だとしても、当時における「ぼた餅」の値打ちや意味が説明されてこそ、その文脈がよく理解できるのである。田中貴子氏の『検定絶対不合格教科書 古文』(朝日選書 2007年)では、「かいもちひ」の先行研究を紹介しながら「かいもちひ」の正体が現在においてははっきりとわかっていないことを述べられている。古典の授業では、しばしばわからないことに蓋をしてしまう(あるいはわかった振りをしてしまう)のであるが、そうではなく、わからないことはわからないこととして、疑問を素直に受けとめることも大切にすべきではないだろうか。
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