文章に即して古典を読む
『徒然草』「丹波に出雲といふ所あり」(二百三十六段)
●知っているがゆえの失敗このように考えてくると、聖海上人の失敗は、ものを知らない愚かさから起こったのではなく、出雲大社への信仰心をもち、狛犬についてもよく知っていることから起こったものであったといえるのではないか。もちろんその場合でも、よく確かめもせずに感動してしまう聖海上人に軽率さがなかったとはいえない。だからといって、聖海上人を「愚者」と見るのはやや行きすぎではないか。智者が愚者を笑う、という図式では、『徒然草』の面白さは見えてこない。 この話は、知ったかぶりをする愚かな者を笑った話、と読むのではなく、ものを人並み以上に知っているがゆえにかえってものを見誤ってしまうことがある、と読めるのではないか。無知であるがゆえの愚かさもあるが、もう一方にものを知っているがゆえに犯す過ちもあることを兼好は見抜いていたのではないだろうか。不完全の知がもたらす失敗といってもよい。 私たちは、日常において知らないがゆえに過ちや間違いを犯すことがある。五十二段の「仁和寺の法師」(仁和寺の法師がひとりで石清水八幡宮を参詣したが、麓の極楽寺・高良大明神などを拝んで、これだけと思って帰ってきてしまう話。末尾を「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。」という兼好の感想で結ぶ)の話などはその例といえる。しかし、それでは知っていれば過ちや間違いを犯さないかといえば、そうともいえないのである。聖海上人は、狛犬について知り、出雲神社について知っているがゆえに、狛犬の立ちように深いわけがあると考えてしまった。知っているがゆえの間違いである。もちろんその場合の知とは、中途半端なものであり、不十分な知とはいえる。しかし、ふり返って考えてみれば、完璧な知はどこにあるというのか。ある程度物事を知ることは可能である。しかしそれが完璧な知となるには、どうすればよいのだろうか。完璧な知などどこにもない、知っているがゆえに間違いを犯すこともあるのだ、兼好はそう語っているのではないか。知っていても間違いを犯すのであれば、知らない方がよいのか。兼好は、おそらくそうも考えてはいないだろう。無知であることよりも知っていることの方を重く考えたであろう。しかし、知ったとしてもそれは完璧な知ではないこと、そのことの自戒がこの二百三十六段のテーマといえるのではないだろうか。そのように私には読めるのだが。
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