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『伊勢物語』「筒井筒」(第二十三段)を読む

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●「田舎わたらひ」とは?

 冒頭に「田舎わたらひしける人の子ども」とあるのだが、「田舎わたらひ」とは、どのような意味なのだろうか。「新日本古典文学大系 伊勢物語」(岩波書店)では、次のように説明している。

 地方をまわって生計を立てている人。具体的にいかなる階層・職業の人か不分明。行商人、地方の下級官人など解は分かれる。

 大きくは「行商人」とする説と「地方官」とする説とに分かれるようである。(A)の範囲を読むだけであるならば「行商人」と読んでも、「地方官」と読んでもさほど問題はないように思う。幼なじみの男女が、その愛を育み、めでたく結ばれた話と読めばよいし、そこでの二人の身分はさほど問題とはならない。しかし、話が(B)に移ったとき、二人の有り様が問題となってくる。「田舎わたらひ」を「行商人」と考えた場合、「もろともにいふかひなくてあらむやは」とは、男にとってどのようなことだったのであろうか。男も親と同じ仕事をしていなかったのだろうか。男も行商人をしていたとすれば、男はそれなりの経済力を持っていたのではないのか。そうだとすれば「もろともにいふかひなくて……」とは、どういう意味をもつのだろうか?

 また、「地方官」さらには「貴族の末に連なるもの」と考えた場合、男は自らの経済力の弱さを支えるために高安におもむいたこととなる。それはそれで理解できなくもない。ただ、男が高安におもむくのを、女の経済力が弱くなったのを少しでも助けようとして、という理由と考えるものもある。男の身分がはっきりしないだけに、なんとも話の焦点が定まらないままに読み進めなくてはならないのである。

 (C)に話が移ると、次のように語られる。

 まれまれ、かの高安に来てみれば、はじめこそ心にくもつくりけれ、今はうちとけて、手づから飯匙取りて、笥子のうつは物に盛りけるを見て、心憂がりて行かずなりにけり。

 「手づから飯匙取りて、笥子のうつは物に盛りけるを見て」、男は「心憂」く思う。そこに男の貴族性を読み取るならば、先の「田舎わたらひ」は、「地方官」「貴族」と読むのがよいように思えるのだが……。

 私の使った教科書には(B)の場面で、男が前栽に隠れて女の様子をうかがうところを描いた尾形光琳の絵が掲載されていた。そこでの男は、狩衣・指貫をつけた平安貴族の服装をしている。「田舎わたらひ」については、脚注で「地方官とも、行商人とも解されている」としながらも、(B)の場面では男は貴族として描かれているのである。

 もちろんそのような画を載せていない教科書もある。しかしながら前述の「田舎わたらひ」の注一つとっても、それをどのように解すのか、教科書自体もあいまいのままなのである。

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