文章に即して古典を読む
『伊勢物語』「筒井筒」(第二十三段)を読む
●「筒井筒」のひねりのある構成(B)の話で終われば、男の浮気と読もうが読むまいが、それなりに感動的な話として「筒井筒」は理解できる。歌が二人を結びつけ、そして再び歌の力で二人は元の鞘に収まり、無事に暮らした。めでたしめでたしとなるのだが、(C)があることで「筒井筒」は、もう一ひねりが加えられる。 高安の女の元に一旦は通わなくなった男が、また高安に通ってきたのである。男の浮気心などそう簡単におさまるものではない、といってしまえばそれまでかもしれないが、(C)の話の主眼はそこにはない。(C)の話の中心は、再び通ってきた男に愛想をつかされた高安の女の方にある。(A)(B)では、幼なじみの男女の恋、そして夫婦愛をうたっていたものが、(C)においては浮気相手の高安の女の側に視点を移す。そして男を待つ高安の女の心情が歌で語られる。そして、男が高安に来ないことで終わっている。 「まれまれ、かの高安に来てみれば」と語り出されることで、(B)で盛り上がりを迎えたドラマが、一気にしぼんでしまう。「かぎりなくかなしと思ひて、河内へも行かずなりにけり」で、二人が元の鞘に収まり幸せに暮らした、と読もうとした読者の思いは、見事にはずされてしまう。男は、高安に通わなくなったのではなかったのか? それがまた通い始めるとはどういうことか。(B)での盛り上がりを故意にはずすように、(C)は語り出されるのである。もちろん一度ずらしておいて、再度盛り上がりをつくっていくという語り方もある。しかし、(C)はそういう語り方ではない。「笥子のうつは物に盛りけるを見て、心憂がりて行かずなりにけり。」と、男が再び高安に通わなくなる理由は、男が女のなれなれしさに愛想を尽かしてのことである。元の女を思って通わなくなるのではない。 そして、その後に語られるのは、男が通ってこなくなった後の高安の女のことである。 君があたり見つつををらむ生駒山雲な隠しそ雨は降るとも という二首の歌は、男を思う高安の女の心情が歌われていてせつない。それだけに「笥子のうつは物に盛りけるを見て、心憂がりて行かずなりにけり」となった男の薄情さが際だってくる。 しかし、高安の女の側に寄り添えばそうほど、(A)(B)で語られた男と女の話は相対化されてしまう。純愛は、その二人に寄り添った視点でとらえることで美しく見えるのである。高安の女の側に視点を移してしまうことは、(A)(B)での男女の愛をも相対化してしまい、結果「筒井筒」の話が全体としての統一感の弱いものとなってしまう。 「筒井筒」は、(C)の話を最後に置くことで、故意に物語として盛り上がることをはずしているように私には思える。その意味では、かなりひねった物語展開といえる。通常、物語はある盛り上がりをつくり、そこに向かって読者を導こうとする。読者は、その仕掛けにのることで、物語を読む楽しさを味わう。「筒井筒」は、読者の期待をあえてはずすように構成されている。その意味では、基本的な物語構成がきっちりわかった読者にとっては、その仕掛けは面白く読みとれるであろうが、古典入門期の生徒にとってはわかりにくい構成といえるのではないだろうか。 そのような作品を、高校一年の教科書に収録する無理はしなくてもよいのではないか。古典の面白さ・魅力がわかりやすい作品は他にもたくさんある、と私は思うのだが……。 (おわり)
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