1 三年生だけじゃなく、二年生でもやってみた
『国語通信』第三四六号(一九九六年四月一〇日発行)に、「わたしのアンソロジー」という文章を書いた。「高ため」三部作の一冊『高校生のための小説案内』を授業の時間に黙読し、生徒一人ひとりがノートを作る授業を「わたしのアンソロジー」と名付けたのだった。
指定された作品を黙読したあと、次の五つの項目を一ページ内に書くことが授業の中身になっている。
① 作者紹介を写す。(客観的知識)
② リードを写す。(編集者からのメッセージ)
③ 本文の中からもっとも気に入った箇所を三行以上書き抜く。(作者からの声)
④ ③についての感想を一行以上書く。(読者のオリジナリティをちょっぴり)
⑤ 覚えたい漢字を一〇語以上書き出す。(ことばの学習)
毎時間ノートを点検したが、生徒の作った「わたしのアンソロジー」の③と④の項目は目を見張らせるものがあった。教室での音読を毛嫌いするかれらだが、読むこと自体は嫌いでもないのじゃないかと認識を改めさせられた。読まされることがイヤなのだ。とりわけ教室で音読させられることがかれらには耐えられない。
指名されて音読させられるときの逃避的な、ときには反抗的とも思えるいつものふてくされた態度と比べると、「わたしのアンソロジー」に表れた生徒のことばはまるで別人のもののように新鮮に感じられた。『高校生のための小説案内』を読んだ若者の反応が教師側にはっきりと伝わってきた。
「高ため」を黙読する授業の当初の目的は、生徒一人ひとりが一時間の内に少なくとも作品を一回は通読することだった。
卒業を控えた三年生だけを対象にして恐る恐るはじめたが、意外な展開に気を良くしてどんどん大胆になり、二年生にたいしても黙読授業を拡大していったのだった。 |