ちくまの教科書 > 国語通信 > 連載 > 「高ため」を黙読する授業第二回(6/6)

「高ため」を黙読する授業

(この連載は、機関誌『国語通信』1996年春号~1999年春号に掲載された文章を転載したものです。)
第1回 わたしのアンソロジー
第2回 密室をつくる
第3回 逆習シール
第4回 テキストを編集する
第5回 モーツァルトへの手紙
第6回 教室に風を入れる
服部左右一(はっとり・さういち)
愛知県立小牧高等学校教諭
元愛知県立小牧工業高等学校教諭
『高校生のための文章読本』編者
筑摩書房教科書編集委員
長年「表現」分野の指導メソッド開発に携わる。

第2回 密室をつくる
前のページへ 1/2/3/4/5/6

6 勉強ではなく、楽習を

 この授業は最近の生徒にとってけっこうハードだ。毎回二~三ページ、多いときは五~六ページを黙読し、一ページは必ずノートを作らなければならない。ぼんやりと教師の話を聞いているだけでは過ぎていかないからだ。これまで以上に集中力を要求される授業であるにもかかわらず、ノートの提出率もよく、授業後の感想でも面白く読めたという意見が多かった。

 予習というものに無縁であり、授業中のほとんどの時間を受け身的に過ごす生徒にとっては、自分で「写し、読み、書き、考え、覚える」という学習をしたとの、久々のあるいは初めての手応えが感じられたようだった。

 学校は勉強する所で学習者のやる気や意欲が大切だという意見が、学校以外のいろんな場所から噴き出していて、それに対して異論を唱える余地がない。しかし、学習を教師側からしかとらえない教育の現場ではこうした意見もお題目だけの建前論にすぎず、説得力があるとは思えない。

 「教える室」(教室)で、「教える人」(教師)が、「教える科目」(教科)を「教える材料」(教材、教科書)を使って「業として授けている」(授業)。学校現場はどこを切り取っても「教えること」でいっぱいなのだ。授業に関することはすべて教師が中心なのだ。

 生徒は常に教えられる存在であって、いつも無理につとめる(勉強)ことが求められている。生徒の顔を見れば教師は「勉強、べんきょう、ベンキョウ」と念仏のように唱えるが、一体いつになったら「勉強」(押しつけ学習)ではなく「楽習」(楽しく学習する)に目が向けられるのだろうか。

 とても、おもしろかった。一、二学期に比べたら一・五(当社比)ほどおもしろかった。(化工科K君)

 生徒のこんな感想を読むと「わたしのアンソロジー」をもっと改良してどんどん楽しいものに変えたいという思いが強くなる。国語科の他の二人に話すと、UさんとMさんも新しいアイデアを出してくれ、一緒にやることになった。ということで、今年の合い言葉は「もっと楽習を」に決まった。

前のページへ 1/2/3/4/5/6 (第3回へつづく)
ちくまの教科書トップページへ テスト問題作成システム テスト問題作成システム:デモ版 筑摩書房ホームページへ 筑摩書房のWebマガジンへ お問い合わせ