第二回 『万葉集』は「国民歌集」か
東歌と東国東歌は、かつては東国の民謡を記録したものと考えられていた。もちろん、東国の衆庶の声を伝える歌であることは間違いない。しかし、今日では、それをそのまま衆庶の生の声と見ることには大きな疑問が持たれている。その理由は、東歌がすべて完全な短歌形式(五七五七七)で記されているからである。『万葉集』でも、もっとも早い段階の歌、いわゆる初期万葉の歌の音数律は、五音、七音に完全に固定されてはいない。記紀歌謡の基本も短句、長句の組み合わせからなるが、やはり五音、七音に固定されてはいない。五音、七音による短歌形式は、もともと王権の中心である大和地域で生み出された歌形であったらしい。 音数律は、時代や地域ごとに微妙に異なっていた。琉球弧(南西諸島)の歌謡の基本が、八音、六音であったりすることからも、そのことは容易に想像できる。ならば、東歌の歌形がすべて完全な短歌形式であるのは、むしろ不自然ともいえる。そこには、中央の側からの何らかの働きかけがあったに違いない。すべてが一字一音の音仮名表記(「足柄の」を「安思我良能」とするような、漢字の音を用いた表記)であることも整理のあとをうかがわせる。 もう一つの疑問は、東歌に見られる方言的要素である。東歌の方言的要素は、防人歌ほど色濃くはない。音韻面についても、当時の東国語の実態を直接には反映していないとする見方もある。ここでも、中央の側の意識がどこかで働いていたと見るべきだろう。 東歌には、労働の場で歌われた歌、性愛をあけすけに歌った恋愛歌などが見られる。東歌を東国の民謡と解する説は、そうした歌の存在を根拠としていた。だが、述べたように、東歌を東国の民謡そのものと見る説は、現在ではほとんど否定されている。これらの歌は、民謡そのものではなく、中央の側の意識によって、何らかの手が加えられた歌、あえていえば民謡らしさを残した歌と見るのが、ほぼ通説的な理解になっている。 それでは、なぜ『万葉集』に東歌が収められたのか。そこには東国の特殊性が大きくかかわっている。東国は、当初から中央の王権にとって特別な地域とされていた。もともと大豪族が盤踞し、それを通じた間接支配を本来とした西国とは違って、東国には早くから王権の直接支配が及んでいた。東国は、中央の王権にとって、辺境とも呼び得る地域であり、時代とともに東へ東へと拡大されていった。その範囲は、東歌の採録された地域、さらには防人が徴発された地域とも重なる。東山道は信濃国以東、東海道は遠江国以東がその範囲になる。より時代が降ると、東山道は碓氷坂以東、東海道は足柄坂以東の坂東八カ国に狭められるが、当初は信濃―遠江を結ぶ線から東の地域が東国と見なされた。 「都」と「鄙」という言葉がある。「都」は「宮処」(宮=皇宮の置かれる場所)で、畿内(都が置かれるべき中央の五カ国)を意味し、「鄙」は畿外の地域を意味した。しかし、その「鄙」に東国は含まれない。『万葉集』を見ても、東国はけっして「鄙」とは呼ばれない。東国すなわち「東」は、「都―鄙」の秩序から除外された、いわば第三の地域として意味づけられていたのである。 だが、王権が全き王権であるためには、支配領域に第三の地域も含み込まれていなければならない。『万葉集』が王権の秩序を背景とする宮廷歌集であるなら、「都―鄙」の秩序とは別に、第三の地域である「東」の歌がそこに収められる必要があった。東歌が特立した巻(巻十四)として『万葉集』に存在する理由はそこにある。 東国は、中央の側にとって、あきらかな異域として存在した。ならば、そこには異風(蛮風)が現れていなければならない。東歌に、中央の側からの手が加えられた痕が見られることはすでに述べたとおりだが、その結果、東歌が中央の歌と同一になっては困る。一方、方言的要素をそのままに残しておけば、都の人びとにはまったく意味不明になってしまう。そこで、異風を感じさせつつも、都の人びとにも何とか理解できる程度に、それを薄めることにしたのだろう。 その上で、異風(蛮風)をつよく感じさせる歌が、東歌には求められた。労働に際しての歌―労働歌もそうした例になるが、とりわけ性愛をあからさまに歌った歌は、その典型になる。一首だけ掲げておこう。私の『万葉集全解 5』(筑摩書房)から引用する。 上野安蘇の真麻群かき抱だき寝れど飽かぬを何どか我がせむ 〈口語訳〉 束にした麻を抱きかかえる様子を、妻との共寝の情景に転換している。この歌は、あるいは、麻を収穫する際の労働歌かもしれない。情意語を用いず、「寝」を直接的な性愛描写に使用するのが東歌の特色とされるが、性愛の歓びをここまであからさまに表現した例は、中央の歌には存在しない。それゆえ、ここには東国の異風を一種のエキゾチシズムとして伝えようとする意図があったと見ることができる。言葉を変えれば、中央の側から見た東国理解の一つのありかたがそこに現れている。植民地時代の西洋のオリエンタリズムに通ずるような意識とも評しうる。その意味で、東国とは、中央の王権にとっての植民地であったともいえる。東歌はそのような地域の歌として定位されたことになる。それが、『万葉集』に東歌が存在することの理由になる。
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